「いもあらいに行く」と初めて聞いたときは、ちょうど長芋の収穫時期だったので、「それは大変な作業ですね。腰を痛めないようにね。」と受けたのでした。「そうなのさ。腰の痛みが治らないから三沢までいってくる。バスで迎えにきてくれるしの〜。新しい機械ですごく性能がよくて、寝てればなんでもわかるんだと。」「それ、ひょっとしてMRIのこと?」「そうそう、そのイモアライさ。」
車で一時間ほど南にある整形外科クリニックからはほぼ毎日送迎バスが出ていて、大勢のご老人が乗り込んでゆく。建物は新しくモダン。MRIは基本検査らしい。治療の内容は詳しく知らないが、拝見する処方は通常のもの。「一年前は骨の変形があったと言われたから、今年もまたやってもらおうと思ってるんだ〜。まだ痛いからなあ。」 ウーム。
田舎に住むご老人が求める高度医療・専門医療。彼らに非はない。そのような日本の医療物語にちゃんと乗っているだけだ。地域医療という特別なものを求める人はいない。問題の解決を求めて自由な選択があり、田舎で満たされない(治らない)のだから送迎バス付きの専門施設はむしろ望むべくして成立している。さらにその地域での物語あるいは口コミも影響力が強く、外部からのコントロールは不可能に見える。論理ではなく、信念に近いものだから。
医療費の効率化にはおそらく医療制度の変更が必要だろう。新しい形になれば、物語も変容せざるを得ないだろう。ただし新たな物語に正当性と希望を感じるのでなければ、ついに主流とはなりえないとも思う。僕らは準備ができているだろうか?患者中心医療の方法と地域アプローチの実践は、まず自分を変えてゆく覚悟がなければならないのだからね。新しい人よ、現れよ。