2008年6月22日日曜日

コーヒー5杯分の結論

 大学の研究室ではなくて、一般の外来診療や地域医療の中で、人を対象にして行う研究の一般は臨床研究と呼ばれています。家庭医療学会でもプライマリ・ケア学会でも世界家庭医療学会でも、ここ数年よく言われています。10年くらい前に僕らもそのような活動をしていたのだし。だけど、できない。学会が騒ぐのも、裏を返せば実際にはできていないからでしょう。
 近々京都大学の福原教授に臨床研究のお話を伺うことになっていて、今、付け焼き刃的に疫学や研究の本を読んでいます。うーん、読みづらい。眠くなる。もう、コーヒー5杯目だよ、と女房の声がする。研究発表で世界を変える気なんてない。むしろ、自分の人間性が臨床に与える影響をなんとかしたいと思う。自分の心理コントロールと改善が課題であるなんてことが、そのまま研究になってくれたらいいのになあ。教授に聴いてみようかな。
 なぜ臨床研究ができないかという研究(?!)も発表されています。時間と仕事の制約の他に、患者さんとの関係にあたえる影響を心配したり、大学の研究者に対する疎外感(自分はただ利用されるだけ)や怒りがあるようでした。謙虚に、本当に患者さんのためになることを考えて行うのでなければ、そして臨床医との共同作業であることに十分気を遣わなければ、臨床医の反感をかうことになるのだと思います。いろいろな意味でむずかしいですね。

2008年6月15日日曜日

遠い目標、遠い星。

岡山で行われたプライマリ・ケア学会に行ってきました。永井友二郎先生という、この学会の創始者ともいうべきご高齢の先生の講演は感動的でした。自らの経験をもとに深く考察され、”プライマリ・ケアこそ究極の医学”と論ずるに至るその確信と迫力が、おどろくほど穏やかに語る静謐さを裏打ちして、聴く者たちの心を振るわせているようでした。澄み切った冷たい水をのみほすような感覚。或いは北極星。日本にもちゃんといるではないか。あのような医師になりたい。あのように生きてみたい。しかし遠い、本当に遠い目標。

2008年6月12日木曜日

疾患名は抽象的

疾患名は抽象的な概念なので、誰にでも使えるが実は誰にも適応できない。その人の背景や生い立ちや家族や社会、或いはその人の信条のという全体性の中にその疾患名を置くと、えらく場違いな感じがする。映画の中に突然アニメーションを組み込んだときのあの違和感に似ています。同じ感冒だって、その人その人でまったく違った意味や重みを持つものなので、急性上気道炎という言葉に翻訳した時におこる抽象化に気をつけた方がよいと思う。それでは分かったことにならないと思う・・・ということを、若い医師に話すことがあります。そんなことを考えても考えていなくても処方箋の内容は同じだったりするので、意味がないのではないか、とも言われます。多分違うのは、話す態度や物腰だろうと思うのですが、なぜこのような違いが発生するかというと、全体性の中でみた疾患概念の変貌に驚きを感じるからなのだと思います。例え話を1つ。疾患概念を墨汁の1滴に、ある人の全体性をお皿に入った水とします。お皿の形や大きさや色、或いはその深さによって、或いは滴下するスピードによっても、落ちた墨汁が水面にあらわす模様は全く独特なものになるでしょう。そのお皿さえ、時とともに変化しますから毎回が違ったものになります。驚くべきことですね。

2008年6月1日日曜日

伝わること、その周辺

意図したものがつたわらない。或いは意図していなことが伝わっている。たとえば気持ちの入らない空返事で伝わるのは、”君には興味がない”ということだったりします。地域医療を学ぶ学生さんに、コミュニケーションとネットワークにおける立体構造(話せば長くなるのですが)の意識が決定的に重要だと力説する僕自身のコミュニケーション能力の低さが露呈していたりします。もともとコミュニケーション能力の高い人は、そんなこと意識しないでできてしまうので、ことさら重み付けをする必要がないのだと思います。え?それがそんなに大変なことなの?という感じ。めいっぱい気張って多分人並みのコミュニケーション能力なので、そうでない人からみると理解しがたいほど疲れたりします。僕は一流の家庭医には決してなれないだろうと深く確信する理由がここにあります。どうみても僕より適性があるような学生さんに、K教授の周辺でよく遭遇します。教授が伝えているものは多分単なる知識ではありません。意図していないものが、或いは言葉に表現していないものが伝わるという不思議がここにもありますね。