2009年11月24日火曜日

tenderness, gravity of love

 そのような感覚。弱さ、儚(はかな)さに心が引かれてゆくこと。遠景に消えつつあるような、手からなにかが離れてゆくような、そのような失うことの予感が心を波立たせているようだ。久しぶりに会った自分の子供(もう成人しているのだけれど)のなにげない仕草や言葉にそれを感じて、大声で泣いてしまいたくなっていた。若いころのような星屑の涙はもう求めるべくもないけれど、重力に引かれたものができるのは、せいぜいそれくらいのことだ。そうでなければ抱きしめるしかないではないか。きっと、親父やめろ、というのに決まっているけれど。
 外来診療における共感。僕はnarrative driveという名をつけたのだけれど、儚さに引かれて発生するこの力は多分humanityとかloveとかというものに近いのかもしれない。・・・なんにでも屁理屈つけるのは悪い癖だ。それにとりあえず、泣くのはみっともないことだ。今回はちょっとあぶなかった。

2009年11月13日金曜日

bitter pain, sweet pain

 手当という言葉。きっとそれは、実際に痛いところに手をあててさするような動作から来ているのだろうと思う。自分で痛めた場所を自分の手でさすっているのだし、その効果はgate theoryからも確かめられそうです。それにしても、子供にとって、母の手当に勝るものは(多分)ないし、僕ら大人にしてみても、優しい触り方と言葉がどれほどの救いをもたらすかは議論の余地がないほどのことでしょう。
 実は研修医のMさんの仕草を見ていて、”手当”のことを思ったのでした。相手を気遣うものの言い方、やさしい仕草で、リウマチを煩うTさんの表情がみるみる和らいでいくのがわかりました。うーん、すごい。Tさんと18年も付き合いのある僕はまるで木偶の坊のように傍らにおり、”じゃ、また”などど言っている始末。同じ痛みが、同じ原因/同じ病態生理であったとしても、たった一人の暗い部屋で感じるそれは、きっと魂にもつきささっているし、それが日常であれば、きっとその人は長生きなんかできないだろう。ただ手当の優しさこそが深いところでその人を救うのではないか。Mさんを見て本当にそう思う。GP/FPを語る僕は、実はただの子供であり、語らずに実践する若い人に、絶望的な成熟を感じてしまいました。とりあえず、が、頑張るんだ、俺。