2008年9月26日金曜日

いまさらのidentityについて

前回の投稿で気軽にidentityという言葉を使っていましたが、実は恥ずかしながらこの言葉の意味を実感として理解できたのはつい最近のことです。自己認識或いは自己同一性と訳されることが多いこのidentity(語源はラテン語のidentias:同じであること)ですが、精神が自分をそういうものであると認識することは、当たり前のようですが、外部からそのようであると認識されることが同時に必要だろうと思います。自分がそのようであると認識するのは鏡に映る自分を自分と認識することと似ています。そのように見えるものが自分である、ということを完全に把握している状態がなければできそうもありません。その把握の仕方が社会的にも妥当なものでなければ、多分その人の認識は狂人のそれになります。family physician, general practicionerである自分を発見できたのは、多くの仲間とMcWhinneyの教科書のおかげです。同じ考え方、同じ行動の型、同じ感情の向け方を持つそれら医師たちを自分の中に見いだすことが、自分がなにものであるかを教えてくれました。ここまでに25年の年月を要したのでしたが。うーん、長い。長すぎだよ。もう50歳だものね〜
そういえば、これと似たようなことをすでに20年ほども昔に経験していました。そう、息子に”とうさん”(記憶の中では彼が生後10ヶ月くらい)と呼ばれて、自分が父親であることを全身で納得した時のことでした。父として生きて行く覚悟をした時のことでした。

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