2010年7月28日水曜日

dream of multiple thread;PCM×phenomenology

 なんでこんな夢をみたのか自分でもいぶかしいのだけれど、夢の中では、 "そうだ、multiple threadこそが、全てを(いかにも夢っぽい断言の仕方で)説明するのだ。”と言っていた。multiple threadなんて言葉も、どこかで聞いたことがあるなあ、というくらいでよく知りもしないのに全く不思議なことでした。夢の中のそれは、関係性による物事の存在成立を1つの平面(plane)とイメージしていて、それが無数にかさなり合って世界が成り立っており、しかも同時に併存していること。また1つのplaneは各自の関心志向性によってなりたつセットになっており、このplaneのどこかへの接触の違和感と親密感が他者性のよりどころになっている(夢では)。なお各自が無数に持つplaneはさらにメタな関心志向によって貫かれ、再構成され、随時新たな或いは一時的なplaneを形成する。このplaneの生成の有り様をmultiple threadと言っていた・・・ような気がする。ちなみに、今朝wikipediaで調べてみると、threadの原義はより糸を構成している1本の糸のこと。よくコンピュータのプラグラム関係で使われている言葉で、プロセスよりも細かい並行処理の実行単位と説明されている。うーん、なんだかよく分からないが夢の話と似てないわけでもない。おそらくPCMと現象学の話からたまたま出てきた夢なのだろうけれど、せっかくなので実際の臨床でその意味を考えてみようかな。

2010年7月23日金曜日

the magic dragon swings his magic wand

 先日I市民病院からお手伝いに来て下さったmagic dragonことN先生の話。painに関する知識や技術に長けていて、もう本当に魔法をみているようでした。magic dragonというニックネームを勝手につけたのは、そのユニークな経歴やliberal artsへの思いの深さが、まるで異国のお話のようだったからでしたが、医療面での卓越さを目の当たりにして、ありゃりゃ、本当に魔法使いのようだな、と思ったのでした。さらに言えば、前回のブログに関連しますが、臨床への現象学的な視点の導入についても相談したのでした。そりゃもう、本を調べるのでもなく、問題となっていた文章を解析してささっと教えていただいたりして・・・うーん、呪文?そしてまた、あっという間に尾駮診療所から姿を消していたのでした。また、おいで下さいね〜

2010年7月20日火曜日

analysis of crying ; an introduction of phenomenology

 泣くということ。最近は確かに涙もろくなっていて、以前ではありえない状況で涙が出る或いは目頭が熱くなる。一般的に年齢によると思われているこの手の変化は、実は同じ表象をとらえるこちらの志向性が大きく変化したことによる感情反応の変化なのだと現象学的な知見は教えてくれる。はかなさの経験、或いは失うことのせつなさを獲得したことで、自分の中の認識は変わっているのだ。音や味や色彩の感じ方に個人差や経験が関係するように、僕の涙もろさにもそのような変遷があるのだろう。僕が生きてきた人生によってもたらされたものであるにしても、この涙もろさは僕に固有の物語では説明がつかない。一所懸命な人を見ると涙が出るということを、そのときにそういう人を見ていたという状況で説明することは難しい。涙もろさの発現には、はかなさ・失うことのせつなさの獲得という認知行動的な変化が必要だったのだ。たぶんDr.F(たびたび登場する僕の友人)が臨床にとりいれようとしていることの内実はこのようなものだと思うのだけれど。
 実は、先日久しぶりに若い女性が泣く姿を見て、その事情を検討する必要ができたのでした。どんな状況で、どうして泣いたのか。彼女の解釈は?希望は?こちらの対応は?これらの物語的な解釈で理解され解決される問題も実際の臨床では多いのですが、ある人たちとっては周りの状況にその責任を帰するよりも、その人にとっての泣くことの意味或いはその認知・行動特性にアプローチしたほうが適切と思われることもあります。そしてそのアプローチの選択は多分やってみてだめだったら、他のアプローチへ、というのが現実的かなあ、と、 やはりこれも経験から獲得した(年取ったと言うことですね)日和見主義を炸裂させつつ思うでした。Dr.F、現象学の入門書やっと一冊読みました。
 

2010年7月9日金曜日

to know why not to know

 先日調子にのって汎用診断論なんというものだから、そのすぐ翌日に、診断できないで3次病院にお願いした方がおりました。うーん、天にみられているような感じではありますが、この際、なぜ診断ができなかったのかを考察してみます。
 まず、汎用診断論では障害部位(解剖)×タイムコース(病理)で仮の診断名を決めます。その病因に関しては発生状況から予想することになります。また、その時点のバイタルサインにはリアルタイムな病態生理が反映されていると考えます。ですから、現実の対応としては、病態生理に即時対応しつつ(循環、呼吸、意識が中心)、診断を同時に或いはそれに引き続いて行うということになるのでした。例えば次のような形になります。
1)病態;呼吸不全  
2)診断;肺炎:肺の広範な浸潤影(解剖)×上気道症状から1週間での増悪(タイムコース)
3)病因;肺炎球菌?:市中での発症、高齢者 糖尿病
 以上から、診断ができないときは、当然ながら、障害部位の特定ができないか或いはタイムコースの把握ができないとき、ということになります(病態があまりに逼迫していれば診断まで辿り着けず、高次医療機関に搬送ということもあります)。今回診断がつかなかった方の場合、障害部位はおそらく消化管×急性発症で持続性かつ波状の変動があることから急激な血流障害?ということで、解剖・病理(特に病理)いずれの要素も不確実性が高い状態でした。また病態としてはバイタルサインは比較的安定していましたが、痛みはおそらく経験したことのないようなレベルのつらさであることから逼迫した痛みの発生が疑われました。まとめると、①診断は解剖<病理の両方で不確実であり危機的なものを否定できない、②病態(痛み)は逼迫しておりさらに診断する時間の余裕がなかった、ということです。診療所でのこれ以上の診療は危険と判断し搬送いただきました。無事な帰還を祈ります。
 

2010年7月7日水曜日

diagnosis shows the way

 以前にも診断は未来を動かすということをお話したことがある。新しい研修医の先生にPCMの意味と、それを構成する疾患、特に診断について説明していたのですが、あらためて診断の意味を確認するようでした。若い人が来ることでこのような根源的な話題を検討できるのは本当にありがたい。
 医学生時代に病気の勉強をし、その名前と病態を理解し暗記する。研修医となって実際の患者さんでそれを確認する作業が続く中で、いつしか診断とはその教科書にある当のものを現実にあてはめることであるという感覚になりがちでしょ?。特に初期の研修では病棟勤務が主体であって、受け持ちの患者さんはほぼ診断済みの人なので、診断より治療とそのための検査に意識は集中する。ちょうど失われたものを取り戻すような作業だね。
 一方、外来が主体のプライマリ・ケアでは診断は未定であって、そもそも各科に分かれた患者さんたちが自分の目の前に現れるわけではありません。不確定であり、変化は激しく不安定の状態で私たちにできることは、まずは緊急事態の除外であり、次いで病態の推定しそれを説明できる解剖部位の限定・時間の解析による病理変化の予測です。これらを診断名に翻訳して、初めて一般化されたものとして認識され、その予後や経過をかなりの確実性で予測できるようになります。
 未来予測のために診断をする、つまり診断をすることで未来が予測できるということろが本来の診断が持つ意味と力なのだと思います。そう、診断は暗がりの中に道を示すものだ。PCMと言っても、まず診断の精度がものをいうのは当然です。またそのための診断学を汎用診断理論と、大げさに名付けています。興味のある方は尾駮診療所まで。