2010年8月31日火曜日

teaching medicine in the community

 英国の地域医療と医療教育を視察する下準備ために医学教育に関連した文献を読んでいます。あらためて日本の新臨床研修制度の内容とそれを実行するために展開されている指導医講習会のことを考えながら、その理想と現実の間隙の深さに戸惑いを感じます。僕を含めた指導医講習会の受講者たちが、はたして現場でその教育理論を用いながら、現実的にその体現者たりえたかというと、実のところ厳しいです。各科には徒弟制度の影響がまだ色濃く残っている状況で、講習会でならった成人学習理論・学習者中心の教育を実行することの困難さは、議論するまでもなく分かってしまう。そもそも大学での教育でさえ全く学習者中心ではないのだから、当たり前と言えば当たり前のことなんだけど。
 臨床研修制度の内容は決して悪くない。ただ、その大きな目標となっている医師としての人格の涵養や学習を自発的に続ける能力の獲得といったところになると、これは、忙しい各科の現場ではなくて、むしろ大学でこそ系統だって学習するべきもののように思う。表題の本を読むと、かの国ではこれを卒前教育として地域中心で行っているようなのだ。医療制度等のお国の事情はあるのだけれど、膨大な情報の氾濫、医療の社会化、他職種とのチームワークなどが必須の現代で、医師として生涯発展するための能力をこの時期に、しかも地域という現場で獲得するというのは本当に重要だと深く思う。自治医大の卒業生たちが自前で獲得してきたことと同じ形であることにも驚きました。なんという教育システムだったことか!
 研修制度のマイナーチェンジがあったけれど、大学教育との連動の必要性はあまり問題にされてないのだろうか?各科の技術は卒後の研修で、医師としての基本骨格(内容ではなくてその形)は大学で。多分それには従来の慣習を大きく変えなければならないし、母校自治医大もそれに気づかなければ、未来はないとも感じます。各地域にいる卒業生がいなければ、実は自治医大は普通の医学校の1つに過ぎませんからね。

2010年8月27日金曜日

story telling: live and let live

 1ヶ月或いは3ヶ月という長い期間を地域研修に費やして帰って行く研修医の人たちを見送るのはいろいろな意味で感慨深い。その会話の断片を思い出す、多少の痛みも伴って。
 彼らが傷ついたり悩んだりするそのたびに、何か言葉をさがしてきて語るのは、やはり自分のこと以外ではないのだけれど。自分の経験を再構成して語る物語から、なんとか力のある言葉を取り出そうとする作業は思いの外難しい。まず彼らの今の文脈とそのテーマに合わせて自分の経験を再構成する。もとより客観的な経験というものが存在しない以上、それを実際の経験とするのは無理があるのだけれど、物語として語ることで、とくに力のある言葉を発見できれば、聞くものに勇気をあたえることができるだろう。未来に踏むこむ力になるだろう。それ以外に自分の経験を後輩に話す理由など本来はない、と感じる。しかしながら再構成した自分の経験を語ることで、自分もまた救われるという鏡合わせのような構図もあり、どちらがより多くを得ているかというと、おそらく自分の方なのだ。このことに自覚的であろうと思う。ひとりよがりは僕の悪い癖だ。言葉が相手をさらに傷つけることも多く経験したのであるし。
 T先生、M先生、またいつか会いましょう。

2010年8月7日土曜日

go england go

 秋に英国に出かける予定。昨年は医師数が1名減ってしまってそんな余裕もなかったのだけれど、今年はなんとか行けそうです。たった1週間なのですが、目的は2つありました。1つは新しい診療所を中核にした地域医療・家庭医療のネットワークを広げて、この分野を希望する若い人たちにとってより活動的で魅力のある機会を提供できる施設になること(この地域の医師確保が大きなテーマではあるのですが)。そのための布石。もう1つは個人的なもので、GP(一般医:general practicioner)と言えば英国がオリジナルという感覚がずっとあって、米国式のFP(家庭医:family physician)とはちょっと毛色が違うgeneralistたちの実際の活動、その考え方や行動の生の姿を見てみたいというのがありました。医療システムの違いや民族性の違いはもちろんあるにしても、医師・患者という1対1のそのリアルな場面で生成されるだろう日常診療には共通の形式と問題点があるはずで、それを見たり或いは議論してみたいということでした。GPとしての自分をさがすような或いは確かめるような旅にもなるはずなのですが、かんじんの英語力がなあ・・・それでも気分はgo go englandです(いくぶん昭和的)。