2010年6月29日火曜日

trinity

 日本プライマリケア連合学会に参加。同じ志の人たちと会う。若手の研修医から、20年来の友人、あるいはこの学会だけで毎年見かける何処かの人〜声をかけたこともないけれど。大きめの同窓会のようでちょっと安らぐ。勉強よりもそっちだよなあ、きっと。
 ところで、この学会はプライマリケア学会と家庭医療学会、総合診療学会がgeneralという1つの旗のもとに集まり、国民に理解をいただくとともに医療の再生をめざすための連合であった。その第一回。それにしてはちょっと盛り上がりにかけている。ポスター発表数が少ない、会場の一体感がない、融通の利かない対応。プライマリケア学会は医師だけでなく、看護師さんや介護の方、或いは薬剤師さんなども会員として活動しており、医師も開業医さんが多いので、どちらかというと地域ベースの多職種学会。その他2つはあきらかに医師中心のもので、他分野の学会と同じ体質のものであった。これをそのまま集めて発表やポスターをやっても、ただ集めただけで、ちっとも面白くない。むしろそれぞれがフルパワーでやっていたものを、それぞれが1/3だけ出すものだから、熱気も下がっているような感じでよくない。連動してめざすはずのゴールがはっきりしないのだ。
 三位一体が救いのための関係性を示すものであったように、この連合もまたそれぞれがそれぞれに対して何ができるかを、そしてその救いがなにを意味するのかを問わなければならない。evangelistの語りに熱狂するのが牧師だけであってはならないだろう。

2010年6月21日月曜日

generalist and its meaning

(県人会MLの話題から:総合診療・generalについての私見(改))
 総合診療の意味を考える場合、言葉の問題もあって大抵混乱します。専門医が特定の臓器・病気の修復に強い興味を持つのに対して、generalist は不確定な症状や状況に対応する特性があります。専門医が時間軸のない科学を基盤にするのに対して、generalistは状況依存、時間依存の考え方をします。救急、地域医療に対してgeneralistに適性があるのはこの特性のためです。
 なにをするかという枠組みでとらえるとgeneralistは何でも屋でしかありませんが、どう対応するのかという枠組みでとらえれば、各科の基本技術はもちろん時間・人間関係等なんでも利用するというその優れた特性と専門性が理解されます。ただし、そのoutcomeと方法論をきちんと意識していないと医学の一分野としてはなりたたないとも思います。
 救急、地域医療(プライマリ・ケア)、或いは総合診療は機能を表した言葉ですから、実はどの科の先生がやっても良いのでしょうが、この分野に求められるものを考えればやはりgeneralistの特性をもつ者が適していると思います。総合診療部の苦労は周知の事ですが、generalistという視点から見れば、関係性を基盤に各科の調整や地域との関係調整、或いは外来のあり方を考えることは、確実にgeneralistの生き方ということになります。状況によって自分をこそ大胆に変えて行くからです。それは、できることを機械的に提供するのではないgeneralistにしかできないことでありますね。残念ながら、それをみるdimensionを持たない人にはなにもしていないように見えるのですが。

 どうか、だれかに伝わりますように。

2010年6月14日月曜日

even in a dream

 いまも忘れられない光景がある。特別養護老人ホームでのこと。彼はもうすぐ90歳になる。多少の高血圧がある他は身体的な問題は見られなかった。施設の部屋は4人部屋であったが、十分なスペースがあり、古い診療所の病棟に比べれば断然住み心地は良い。外側に面して大きな窓があり、彼はよくその前に立っては一つの動作を繰り返していた。外に向かって何度も手招きしながら、”母さん、来ーい。母さん、来ーい。”と呼ぶのだった。窓の外、遠くに見える妻の姿は、彼以外の誰にも見えない。朝も昼も、晴れていても、雪が降りしきる日も、夜の帳が降りようと、彼はいつも繰り返していた。
 幻覚でも、夢でも、なんでも、妻に会えること。しかしながら、決して自分の傍らには来てくれないこと。達せられることのない望み。そのたびに全てを忘れてしまう彼は幸せだったのか。ただ悲しみが繰り返されるだけなのか。薬での対応を僕は口にしなかったし、介護して下さる人たちも言い出さなかった。その透明な哀しみを、いとおしく思っていた。
 なぜ思い出すのだろう?空の青が記憶に及ぼす影響に関する文献を、僕は知らないけれど。