2009年8月31日月曜日

a magic dragon talks about the world under sea

 先日、I市民病院のN先生が尾駮診療所にやってきた。K君(イニシャルトークですまない)からは”とても面白い”人物であるという情報がすでにあり、とても楽しみにしておりました。臨床を一時中断していた時期になんと彼は一般大学に再入学して息子さんと同じ年代の人たちと学んでいたのだそうな。そしてアメリカ留学の話、フランスでの話、亡命者の話、格差そのものの世界の話、なによりliberal artsの真の姿。その他僕らの知らない世の中の実相を彼は語るのでありました。すごい、すごすぎるぜmagic dragon! あの海の底にはそんなとんでもない世界が広がっていたとは・・・N先生はご自分のことを変わり者ですから、と総括していましたが、大きな海の世界からみたら、こんな狭い陸地に生息している僕らのほうこそ奇妙な生物のようです。
 ちなみにmagic dragonことN先生は、それこそ歌詞のごとくに、そっと六カ所村から帰られたのでした。K君、確かに面白すぎだよ。

2009年8月24日月曜日

too little mourning

 京都のプライマリ・ケア学会に行ってきました。かつて短期研修に来てくれたS君夫婦とも久しぶりに会えてとてもよい学会でした(、ってこれだけ?)。総会では方向性の類似した三学会(プライマリケア学会、家庭医療学会、総合診療学会)が合同して1つの学会になることが決議されました。これは時の趨勢であって、その目的とするところからも歓迎されてよいと思いましたが、総会の中、ただ一人反対を表明していたA先生のお話が耳に残ります。
 どうして、歴史あるプライマリケア学会をなくす必要があるのか。新しい連携の手法を使えば目的は果たせるのではないか、大学の学者ならそんなことくらい知っているだろう、いや、むしろ合同することで、理念が十分に発揮できなくなるのではないか・・・まるで怒ったような、泣いているような、切ないような語り口で。合同を推進する人々は勢いを駆ってその正当性で反論するのでしたが、なにかズレているようで。拍手があったりして。
 おそらく嘆き悲しみが足りない、或いは、追悼がない。時間をかけてその無念を、心残りを聴かなければならないはずのものだったのに、と思う。弔いが足りない。鬼がでなければよいけれど。

2009年8月12日水曜日

to live with you

 半年ぶりで外来を受診した二人暮らしのご夫婦のこと。脳卒中の後遺症のため認知機能は低下し右半身不随の夫。胆嚢炎を煩って後方病院に紹介、その後老健施設を利用して療養を続け、2件目の施設でのこと。入所して1週間、おしりに小さな浅い床ずれができたのだったー妻は激怒したという。お金を払っているのに!という捨て台詞とともに、妻とその夫は村に帰ってきた、という話をケアマネさんから聞いていた。ケアマネさんは施設入所が困難な現在に入所できそうだった”幸せな将来”を棒にふったような妻の強い姿勢に”世間知らず”の若者をとがめるような口調で、どこまでやれるか自分で試してもらいましょう、と。外来でみるお二人は、夫が少し痩せた以外は以前のようになごやかであった。あまりにも床ずれは軽症であった。なんかいろいろ大変だったみたいだね、と話をふる。職員のあいまいな態度や食事時間の遅すぎること、けいれん予防の薬が出されておらず、しかもそれを尋ねると、精神科医の診察が必要だから判断できないという話になる、ずっと車いすですわりっぱなしで放置されている、そしたらあっという間に床ずれができた、と。職員には強く言えなかったので、親戚に相談して電話で文句を言った。みんなで圧力をかけた、と。
 僕は当たり前だと思った。感情失禁で失語の夫、しかも認知症が進行して十分な理解もできない、まるで子供になってしまったような夫が”痛い”といって泣いたというのだ。床ずれは、彼女が疑ったその施設の”悪い物語”の最終証明だった。彼女の激怒は夫の代わりなのだ。いままで2人で生きてきたプライドをかけた異議申し立てだったのだ。ケアの現場スタッフの困難さを知らないわけではない。ケアマネさんのいう現実も。それでも二人が二人で生きて行くことを選んだのなら、道は開かれるだろう・・・池に放り込まれた小石のようなメッセージ。僕らはこの小さな波紋を地域に広げなければならない。最後まで一緒いたい二人は、僕らの将来の姿でもあるはずだろう。

2009年8月10日月曜日

imaginary number

 先日科学雑誌ニュートンの別冊に虚数の特集号があり購入。高校で習った数学でも確かにあったような気がするのだけれど、なんだかずっと引っかかっていたようで、”虚数”という文字を見て速攻で買ってしまいました。そうか英語ではimaginary numberというのか。それで略号が” i "なのだったか。想像上の数ということで、目で見ることはもちろんできないけれど(それはゼロでも負の数でも同じことである、とも書いていました)、それを導入することで、いままでの概念を包括する新しい視点を獲得できるのだそうです。個々の事象の背景にあるより大きなシステムを関知するには、通常とは別のなにかを導入する必要があるのかもしれないですね。imaginary numberは、いわば高次元をみるために仮想されたシステムの別名であったと言えるかもしれません。
 ここで地域医療の方法といういつもの台詞を持ってくるのは、なんだか余計な感じもするのですが、例によって強引に言ってしまえば、そのような高次元の視点の導入と、それに導かれる実践こそが新しい地平を開くものだと思います。かつて見ていた風景が、異なる光と影のもとで、異なる風の音の中で、再生を開始するようなもの。そういったものとしての地域医療の方法なのだと、複素平面をみながら思った一日でした。ちなみに携帯電話も虚数の導入がなければ実現できなかったのだそうです(うーん、よくわからんけど)。地域医療の方法の実践の中でこれからどんなものが生み出されるのか、とても楽しみです。

2009年8月6日木曜日

resident addiction

 それがなければフラストレーションが昂じて落ち着きがなくなり、それによってその状態が解消されることをaddictionと呼ぶならば、きっと僕らの診療所(の医師他数名)は研修医addictionである。研修医のいない期間のカレンダーを横目で眺め、ため息混じりに”どうしようか?”なんて言いながら、他の施設から研修医を横流し(失礼)してもらえないかななどど話している。横流し作戦を決行するための姑息な手段を口にしては、おいおい、それは人間としてどうなんだ?という会話がなされるのは、やはりどうも変である。
 研修の内容自体はそんな突飛なものでもなく、ありふれたものに違いない。ただ、地域医療の方法という言葉を頼りに、自分を或いは自分たちを語り続けているうちに、この”語る”というところで、必然的に聴衆の存在が求められるようになったのではないか、と思います。その語る自分自体が、毎回語りつつ変容してしまうのですから、確固とした自分があるとも思われません。このあたりに、どうも語ることの秘密や魔力があるような気がします。それにしても、スケジュールの空いたカレンダーは、ちょっと寂しいよなあ、どうしよう、誰か研修に来ないかなあ・・・(以下、また同じ)。