2009年12月7日月曜日

bud in tree

 こずえの先に突如現れた新芽をみるようだった。今まさに冬が始まるこの時期なのに、人間の感性というのは不思議なもので、ある人の行動1つで気分はもう春なのだから。本当にはかない梢であるにしても、それは天空をさしてのびているのだし、こずえの中枢側からみれば、その新芽は太陽の中でまぶしく反射して目がくらむほどだ。大げさな表現を今日は(今日も?)許してもらいたい。たまには、良いこともあるものだ。ぬか喜びにならぬようにと後輩に釘もさされているけれど、今はとりあえずいいんじゃない?楽しいんだし。(とても個人的な話なので理解できないと思います。すまない。)

2009年12月5日土曜日

open the channel , catch the pace

 簡単なようで難しいコミュニケーション。診察室に入っていきなり演技的なほどの具合の悪さを発散させる人に、うまく同調できずにとげとげしい雰囲気になってしまうケースについての検討会の話。
 普段なにげなく行っている外来診療は、ほぼその全ての工程がコミュニケーションでなりたっているということを以前説明したと思う。ちょっと復習すると、外来診療の構造には3つのパターンがありA(acute)B(basic)C(chronic)に分けられる。このパターンを認識することで、今、自分が、何をしているのか或いはどんな方向を目指しているのかがわかるので、外来を始めたばかりの人たちには有用ということだったよね。しかし、だからといってよいコミュニケーションができるこのと保証にはなりません。物語をたどり、共感を得ることが重要というのは間違いではないのだけれど、多分もっと基本的で、考え方というよりは身体的な対応の仕方が大切だったのかもしれないんだ。
 会話は始めるには相手に、会話を始めてもらって良いというシグナルを送る必要があるので、例えば電話でも”もしもし”には”もしもし”だし、普段の会話でも”おはよう”には”おはよう”という具合に、今回のケースで言えば”具合の悪いことをおもいっきりアピールしている仕草”には”具合が本当に悪そうですね。”と返すことでコミュニケーションのchannelが開かれたかもしれないし、”早くなんとか処置を”というアップテンポの雰囲気にはアップテンポで対応するというのが良かったのかもしれないね。僕がうまくできるといっているわけでもないんだけれど、これはNLPという心理療法が教えるコミュニケーション技法の1つでもあるらしいんだ。もちろん診断をきちんとすることは重要なのだけれど、経験が教えるところでは、コミュニケーションエラーは診断を誤る大きな要因にもなっているのだからね。自戒の念をこめて。

2009年12月3日木曜日

being radical to break the frame

 ”現場において、それを行い続けているのには特有の起源と理由があるのだから、いきなり否定するのは乱暴である”と、僕はこのように言ったのだった。こういう言い方自体はそれなりの理屈を付与することはできるのだけれど(なんでも理屈はつけれるものだし)、若手の医師に指摘されたことに動揺して放った苦し紛れの言い訳にも聞こえる。うん、多分両方あるのだけれど、大人ぶったその言い方が気に食わない。自分で汚してしまった悲しみに降り積もる雪は冷たいな。
 結局のところ、重要なのはその動揺をきちんと自覚的に検討できるかどうかということなのだ。動揺するのは、もともとそのことが、自分に動揺をあたえるような不安定なレベルのものであって、潜在意識として継続されていたということなのだ。さらに、起源にもどって考えるという動作は、勢いで言ったにしろ、きっと有効だろうし、違ったであろう未来に出会うために必要な所作に違いない。これこそradicalという言葉の本来の意味なのだし、かたくなな自分を変える有効なあり方の一つかもしれない。

2009年11月24日火曜日

tenderness, gravity of love

 そのような感覚。弱さ、儚(はかな)さに心が引かれてゆくこと。遠景に消えつつあるような、手からなにかが離れてゆくような、そのような失うことの予感が心を波立たせているようだ。久しぶりに会った自分の子供(もう成人しているのだけれど)のなにげない仕草や言葉にそれを感じて、大声で泣いてしまいたくなっていた。若いころのような星屑の涙はもう求めるべくもないけれど、重力に引かれたものができるのは、せいぜいそれくらいのことだ。そうでなければ抱きしめるしかないではないか。きっと、親父やめろ、というのに決まっているけれど。
 外来診療における共感。僕はnarrative driveという名をつけたのだけれど、儚さに引かれて発生するこの力は多分humanityとかloveとかというものに近いのかもしれない。・・・なんにでも屁理屈つけるのは悪い癖だ。それにとりあえず、泣くのはみっともないことだ。今回はちょっとあぶなかった。

2009年11月13日金曜日

bitter pain, sweet pain

 手当という言葉。きっとそれは、実際に痛いところに手をあててさするような動作から来ているのだろうと思う。自分で痛めた場所を自分の手でさすっているのだし、その効果はgate theoryからも確かめられそうです。それにしても、子供にとって、母の手当に勝るものは(多分)ないし、僕ら大人にしてみても、優しい触り方と言葉がどれほどの救いをもたらすかは議論の余地がないほどのことでしょう。
 実は研修医のMさんの仕草を見ていて、”手当”のことを思ったのでした。相手を気遣うものの言い方、やさしい仕草で、リウマチを煩うTさんの表情がみるみる和らいでいくのがわかりました。うーん、すごい。Tさんと18年も付き合いのある僕はまるで木偶の坊のように傍らにおり、”じゃ、また”などど言っている始末。同じ痛みが、同じ原因/同じ病態生理であったとしても、たった一人の暗い部屋で感じるそれは、きっと魂にもつきささっているし、それが日常であれば、きっとその人は長生きなんかできないだろう。ただ手当の優しさこそが深いところでその人を救うのではないか。Mさんを見て本当にそう思う。GP/FPを語る僕は、実はただの子供であり、語らずに実践する若い人に、絶望的な成熟を感じてしまいました。とりあえず、が、頑張るんだ、俺。

2009年10月31日土曜日

miracle apples

 『奇跡のりんご』、読みました。無農薬りんごの誕生を夢見て、ついに現実のものとした津軽の男の話。ひたすらの、物狂いの、家族を巻き込んだ壮絶な半生から見えた世界は、虫と土と空と風が人とともにあり、リンゴとともにある、果てしないダイナミックな関係性の世界でした。存在は関係性の中にあり、境界はまぼろしのようだ。この人間の体自体が、外界と腸管の中で溶け合いながら連続してゆくことを思えば、なんとも不思議なこの命であることか。自己とはなにか。他とは誰のことか。まるで仏教の語りを聴いているような感触。
 地域医療の中に、どうやら、同じようなものを感じている自分なのですが、こんな風に生きることは恐ろしい。せめて、自分の小ささや力のなさを素直に認めて歩いてゆこうと思う。関係性の風を感じながら歩いてゆこうと思う。miracle apples、どんな味がするのだろう。
 

2009年10月24日土曜日

here comes a clown

 clownってご存知だろうか。道化師さんのことなのですが、昨日、尾駮診療所で行った”認知症とコミュニティーヘルスケア研究会”という奇妙なタイトルの会にお招きしたのでした。保健、医療と福祉のスタッフとその関係者を対象にしたもので、communicationを主なテーマにしています。認知症自体がcommunity(家庭と地域社会)とcommunicationの病(やまい)なのだという視点から始めた今回が2回目のものすごくローカルな研究会です。
 研究会の前に村の介護施設にいる認知症の方々と現場でclownさんたちがコンタクトする。その様子をビデオにおさめて、研究会で討論する、という形式でした。なぜ、そのような言葉を発したか?なぜウクレレを触ってもらったのか?なぜ、その人との会話がはじまったのか?その場で、その人が発するなんらかの意図に反応するその自分に反応するその人にまた反応する。認知症の進んだ人こそが、言葉や社会の枠をこえた素の人間として対応できるのだと。自在。そして感応から始まる絶対的な遅れの自覚。人間への信頼。
 よく似ている。外来のあるいは医療や介護の現場そのものの、たゆたうようなその場その場の一瞬の判断と反応が連なる様子は、まるで即興音楽のようだ。どちらが決めるわけではないが、両者がいなければ、形成し得ないもの。しかも周囲の状況が変われば、あるいは天候が悪いということでさえ、同一の局面は二度と現れることはない。はかなく永遠なもの。
 とても不思議なよい研究会でした(自画自賛・・・)。僕はといえば、お話を聴いていて、息子たちの小さいころの様子とそこにいたはずの若い自分を思い出していたのだけれど。なぜだったろう。