2008年12月29日月曜日

自治医科大学の秘密ー伝統の在処

 新年あけましておめでとうございます。今年も自分勝手な文面が続くのですが、新年早々、昨年の続編を少々ー今度は自治医大の秘密。時期が少しずれてしまいましたが、自治医科大学の学生さんたちとの定例忘年会のこと。卒業生は仕事をやり繰りできる人が12名、そして学生は6年生を除く10名ほどが参加します。今回はご家族連れの卒業生も2組。自分の息子ほどの年齢の学生さんたちや若手の研修医を交えた忘年会はおよそ2時間の勉強会付きで始まります。今回は派遣施設の紹介でした。どの施設も自分たちが実際に派遣される可能性のある施設ですから、勢いまなざしは真剣です、うんうん、なかなか皆なかわいいぞ。その後は酒宴が3時間あり、各自温泉に入りながらも2次会が終わったのは午前3時でした。説教される人、馬鹿話の人たち、将来を語る人など、先輩たちもまんざらでもなさそうな一夜でありました。
 思えば自分が学生の頃から綿々と続くこの忘年会こそ、ある意味、伝統を伝える夢の在処かもしれません。先輩たちの白熱した議論(まあ、昔は喧嘩でしたね〜)、学生さんたちのちょっと恥ずかしい芸の発表(かつては先輩のご家族の前でも発表したのでした)、若手がそちらで症例の話や悩みを打ち明けていたり、医師の生き様や地域医療の方法を話したり。
 自治医科大学の本体ではなく、その末端と言われる県人会での交流の中にこそ、計らずも新たな独特の文化がつくられていたようなのです。ブラジルという環境と文化の中でサッカー選手が多く輩出するように、この忘年会の中で地域医療の戦士たちが育成されていたのでした(半ば妄想)。地域医療を語る文化を形成すること。その中で生まれてくることー地域医療を行う医師を育てるための重要な方法論ですね。

2008年12月18日木曜日

自治医科大学の冒険その4(一応最終回・・ ふ〜)

 目覚めた人たちの顛末を、まだ20歳代の僕は複雑な思いでみていました。彼らが去った後の医療センターはなにごともなかったように運営され、義務年限を終了した卒業生たちが田舎で習得できなかった各科専門技術の修練に集まってもいました。自治医科大学の本営は、自分たちの慣れ親しんだ従来の価値観に照らし合わせて、多分それをよしとしたのでしたが、画期的な事業の立ち上げの機会を永久に失ったように思います。大学での一般的な医学学習・卒業生との交流→地元での臨床研修→へき地診療の実践→大学・センターでの各科研修バックアップ→専門家としてのキャリア。ついに円環構造は完成しました。大学人の価値観は守られ、総合医という言葉はへき地で必要な各科技術の習得と実践という同じ地平に置かれることになりました。彼ら目覚めた人たちは、その地平から空に向かって立ち上がった人たちだったのでしたが。彼らはなおも総合医療や家庭医療の尖端で、その価値観を示し続けています。まるで伝説の巨人のように。
 ところで、このへき地医療を担う総合医養成の円環構造は実にシンプルです。教える側は変わる必要がないのですから、自治医大でなくとも地元の大学で行う方が効率的でさえあります。各大学で地域枠の医師が多数輩出するだろう現在、自治医大が恐れるのは当然でしょう。内容は真似易し。姿は真似難し。このことの重要性を引き受ける覚悟があるかどうかが自治医科大学のこれからを占う試金石だと個人的に思っています。さて、これから、どのような冒険が待っているでしょう。第二幕はすでに上がっていますね。

2008年12月11日木曜日

自治医科大学の冒険その3

 総合医は卒業生たちがへき地を中心にして活動し、その現実と対応していた内容をまとめた中から作られた言葉でした。優秀な先輩たちは自分たちの足跡を眺めて気づいたはずです。これは家庭医や一般医と呼ばれる海外の臨床医と同じものであると。そしてその違いにも思いいたっていたと聞いています。英国の一般医のように国家公務員としての活動とは違う、かと言って米国のような完全に開業ベースではない。その中間的な存在を意識した言葉ー”総合医”ーが誕生しました。そして足跡という内容そのものではなく、そのステップの踏み方、つまりスタイルと価値観にふるえるような感動を持った一部の人たちが生まれることになります。彼らは大学にもどり、その経緯と顛末を学長たちに話し(多分)、言葉の定義をつくり、総合医の教育と認定のための医療センターを作り上げるに至ります。それは第1期の卒業生たちが世に出てからおよそ10年目のことでした。
 しかしながら、分裂の種はすでに蒔かれていたはずです。内容はまねやすく、姿はまねがたし。前者(内容)を見る人たちは、まるで専門医たちのおこぼれのようだと感じたでしょう。それらは総体としてみれば地域に必要な医療機能の提供を意味していたのですが、従来の臓器を基盤とした医師の評価の対象にはなりえませんでした。単に義務年限内に果たすべき項目ととらえたでしょう。しかし後者(姿)に新しい医師像を見た者にはまるで宝物を見つけたように感じられたでしょう。作り上げ広げて行くべき新たな分野であり、卒業生にこそ与えられるべき専門性と感じたことでしょう。彼らは最初に目覚めた人たちでした。
 医療センターが開設されてから数年後、その中心にいたはずの目覚めた人たちはことごとく夢の城を去ることになりました。以上、僕が知っている伝聞を含めた物語の再構成でした。彼らはどこに行ったのか?自治医科大学の冒険はさらに続いてしまって、いいのかなあ・・・

2008年12月2日火曜日

自治医科大学の冒険その2

 前回からの続き。どうなることかとの心配をよそに、自治医科大学の卒業生たちへの評価は予想以上に高かったのでした。もちろん需要と供給の関係があり、経験は浅いけれども、とにかく一所懸命に医療を提供しようとする若者たちを評価してくれたということなのでしょう。特に一番最初に赴任した人たちの仕事ぶりは知識・技術もさることながら、へき地で体験された数々の物語は非常に感動的であり、『いま、へき地医療は』という本の中で長く語られることになります。ほっとするのと同時に、大学の人たちは自らの教育に自信を得たのではなかったでしょうか。学校では基本的な医学を教える。地元の医師に多科研修をお願いする。へき地に出向けば、それなりに貢献できてしまう。いいんじゃない!ほーらね。
 やがて卒業生たちは、自分たちに”総合医”という名前をつけるようになる。自分たちで自分たちに名前をつけるということの意味。親の知らない名前。そしてこの名前、この新しい言葉が、次の冒険或いは混乱への契機になるとは誰も知らないのでしたが、今となってはそれは1つの運命だったということになりますね。さらにつづく、かな?
 

2008年11月28日金曜日

自治医科大学の冒険その1

 自治医科大学という大学をご存じでしょうか。僕が卒業したのがすでに25年前のこの学校はへき地医療の確保をその使命として設立されたものです。各県から年に2−3名が選抜試験を経て入学し、医師国家試験はほぼ毎年100%の合格を誇ります。卒後の義務年限が9年あり、おもにへき地の医療機関でその時期を過ごします。もともと医師の少ない或いは医師のいない場所に赴任するわけですから、いくら若造でも、なんとなく感謝されてしまいます。もちろん率直に、”藪医者”と、言われたりもしましたっけ。
 そうそう、なぜ”冒険”なのか。まず、大学の教授陣たちの多くが東京大学の出身で、へき地或いは地域医療の主体的な経験がないということ(見学はしたことがあっても、そこに住みともに悩むという経験はないので、主体的とは言い難いですよね)。卒後の研修はすべて出身県の中核病院の先生方と卒業生そのものに(ほぼ)丸投げだったこと。それはまるで戦場で戦ったことのない教官が武器の使い方を本土で教えて、すぐさま前線に送り込んだような状態だったのでした。武器があれば、良いでしょ!・・・って、お〜い。
 彼らは戦えるのか?”基礎科学は教えた。あとは、現場でやってみてくれ”作戦。うーむ、大冒険だったと思うよ。地域医療を知らない教授に教えを受け、教え子は一人も学校に残らないという不思議な医学校の冒険はこうして始まったのでした。つづく。

2008年11月21日金曜日

ドアをたたく

 先日弘前大学医学部で学生さんを相手に講義をする機会をいただきました。大学3年生、みんな若い。そりゃそうか、自分の子供たちと同世代だもの。『地域における高齢者ケア』というタイトルで1時間半。とにかく最後まで眠ることがないように、と自分の学生時代を思いおこしつつ行った講義でした。ケースワークを通して地域におけるケアを疑似体験すること、その中から地域医療の特性や方法を学習することにしました。最後はいつものように一方的にこちらの思いこみを熱弁することになってしまって、ドンドン、俺の話を聞きたまえー!ありゃ、授業じゃないな〜
 地域医療のスタイルと方法を論理的に把握することはもちろんとても重要なことなのだけれど、それを根底で動かしているのは非論理であるところの感情であることを伝えたかったのですが、叫んじゃだめだな。まるで怒っているような顔になるし。ドアは軽くたたくものだ。気づくひとだけが、そっと、だけれど確実に、気づくだけだ。

2008年11月13日木曜日

たとえば君がいるだけで

 という歌を思い出す。その続きは”こころが強くなれること、なにより大切なものを気づかせてくれたね。”だったかなあ。亡くなる方を目の前に、もうすでに心拍は停止しているのだーカシオペアの下を白鳥たちが飛んでもいるだろう夜にー大勢の家族が集まって、唱和するようにみんなで叫んでいるのでした。”ありがとう。お母さん、いままでありがとう。”なんども、なんども波のように続いて、まるで船の見送りのようでした。君がいるだけで、僕らはこころが強くなるだろう。死をみんなで受け止めることで、君の不在を共有することで、不思議なことに、僕らはあなたを忘れないようになるだろう。家族はきっと強くなるだろう。ご家族のお母さん、りっぱに勤められましたね。ありがとうございました。

2008年11月5日水曜日

大丈夫、一緒に行こう。

 研修医のM君から手紙が届いた。彼は1週間だけ僕らの診療所に研修に来てくれた、若くて情熱にあふれ、世界的な見地で医療や保健を考えることのできるタイプの人だ。他のシステムの研修病院に来年からお世話になる決意といままでのお礼を、いまどき珍しく手紙でおしえてくれたのでした。優秀さは折り紙付きの誠実な彼が新しく選んだ施設は、やはり地域医療で有名な、しかも総合病院とのしての機能も充実したところでした。彼には果たすべき目的があって、それにそった選択の仕方をしているのでした。すごいな〜、まだ卒業していくらもたっていないのに、来るべき未来にそった生き方ができるなんて。しかも僕らのことに恩義を感じて気にかけてくれるなんて。
 大丈夫。こちらの都合を気にすることはないですよ。そもそもなにもできなかったのだから。ところで、君は想像もできないでしょう。僕は(或いは僕らは)君が熱心に誠実に研修につとめる姿を思い出しては、自分を奮い立たせていることを。君の情熱にこちらこそが共鳴していることを。僕らは地域医療のイデアでむすばれた仲間なのだから、離れていても全然大丈夫。僕らも君と一緒に歩んでいるのだから。
 ところで、手紙の返事なんだけれどね、手紙書くのが苦手なんだ・・・・

2008年10月29日水曜日

魂の不滅について

 ”魂があるかだって?あるに決まっているじゃないか。”と語ったのは、小林秀雄だった。僕はそれに勇気づけられていたし、ほうらね、なんとなく皆んなが感じている通りだろーと、小林秀雄の言葉を魂の不滅に関する動かしがたい証拠のように感じてもいました。もちろん幽霊ではなくて、魂のことなのですが。
 昨日、佐賀の白浜雅司先生がなくなったと聞きました。昨年は田坂佳千先生が突然倒れられて家庭医療界に衝撃が走りました。白浜先生には一度だけお話をしてただいていますが、田坂先生とは全く面識もなく、田坂先生のメーリングリストを拝見するのみでした。二人とも影響力の強い方でした。家庭医療に魅せられた同じ年代の彼らの死を他人事ではないと感じるとともに、彼らの魂のことを考えていました。
 魂はそこにある。強く思う人とともにある。魂とは、強烈な感情をともなった関係性の記憶の別名であるから。関係性の記憶がなくなるまで魂は滅することはないと思います。まして言葉や書籍が残っていれば、受けとめられる人に、時代に関係なく、例え面識などなくても魂は訪れるに決まっています。彼ら2人に魅了された人たちともに魂は不滅でしょう。そう、思い出せばリアルによみがえるその言葉や態度は実在します。家庭医療をめざす人の傍らに、彼らはいつも、いつでもよみがえるでしょうね。

2008年10月18日土曜日

大工さんがいない

 来年度の医師臨床研修のマッチング状況が新聞に載っていました。研修医を受け入れる施設とそこでの研修を希望する医師たちとの全国版組み合わせのことですが、弘前大学は希望者が増えていますね!外来棟の建て替えや救急医療計画を要因にあげる人もいるけれど、そんなに研修医を馬鹿にするものではないと思います。研修を担当する教官たちの実力と熱意が波及した結果だと素直に解釈すれば良いのにね。多くの研修医はまじめに将来を考えていますもの。
 一連の新臨床研修制度の致命的な欠陥は、もちろん私見ですが、立派な設計図を配布したのは良いけれど、それを実際に形にする大工さんがいなかった或いはあまりに少なすぎたことだったと思います。設計者だけでは家は建たないという単純な話。もちろん指導者研修会も開催されていますが、失礼ながら、まるで日曜大工の講習会みたいな感じです。講習を受けたはいいけれど、もともと大工仕事が不得手だったり、あまりに日常に忙し過ぎたりして実行するのは難しかったという言い訳もあります。結局は大工仕事はいろんな意味で割に合わないし、もともと興味もなかったということでしょうか。大工さん、いないじゃないか・・・家、建たないっしょ。

2008年10月11日土曜日

なにが分かっているの?

分かる、ということ。研修医の人たちと主に診断についてdiscussionしている時によく用いる言葉の1つに”分かる”があります。”分かっているの?”或いは”分かったかい?”などど。ひとしきりの説明の後では、”分かりました”と彼も言っているし、説明がよく分かったのだろうとこちらも満足したりします。しかし、どうも分かっていないことが、ままあるようなのです。
医師としてのトレーニングという観点からすると、”分かる=理解できる”、ではなく、”分かる=自分で分かる”、ということなのですが、うーん、ちょっと説明が難しなあ。例えば診療の現場で言えば、X線写真にある異常の説明を理解できても、同じ写真を1週間後に見ても自分で異常が指摘できない。分かるというのは、自分の頭の中にあるものと外のものを一致させた時の感覚なのであって、むしろ外側にあるものをみて思い出すようなものだと思います。つまり分かるためには、そのコアを自分の中に作らねばなりません。そのトレーニングこそが職業訓練の名にふさわしい。学生さんとの違いはこの辺にあるとも感じます。もちろん日常で用いる”分かる”という言葉の意味をそんなに問い詰める必要などないのだけれど、教育或いは自分が学習する場面などでは、注意しておいた方がよいかもしれないですね。自戒の念を込めて。

2008年10月1日水曜日

中学生たちがやってきた

中学生さんたちが職場見学にやってきました。医師志望の女子2名、看護師志望の男子1名女子2名。白衣を着た女の子たちは大学生にも見えるくらいに大きく美しくなったなあ。赤ちゃんの頃から知っているあの子たちが、このような形で見学に来てくれているのが嬉し楽しい、ちょっと気恥ずかしい。予防接種であれだけ泣いて抵抗して大変だったあの子も、まじめで素直でかわいいあの子も、そうそう、全部僕らの思い出、この村に起きた夢のような話。頑張って医療者になろうよ。この職業は本当に面白いのだからね。どこまでだって深く、或いは高く、遠くにいける可能性をひめた職業なんてそうざらにあるものではないからね。おじさんがくたびれてしまう前に医者になって帰ってきてね。数学や英語が不得意であろうが、そこは根性でクリアするのだ。〜お願い!!

2008年9月26日金曜日

いまさらのidentityについて

前回の投稿で気軽にidentityという言葉を使っていましたが、実は恥ずかしながらこの言葉の意味を実感として理解できたのはつい最近のことです。自己認識或いは自己同一性と訳されることが多いこのidentity(語源はラテン語のidentias:同じであること)ですが、精神が自分をそういうものであると認識することは、当たり前のようですが、外部からそのようであると認識されることが同時に必要だろうと思います。自分がそのようであると認識するのは鏡に映る自分を自分と認識することと似ています。そのように見えるものが自分である、ということを完全に把握している状態がなければできそうもありません。その把握の仕方が社会的にも妥当なものでなければ、多分その人の認識は狂人のそれになります。family physician, general practicionerである自分を発見できたのは、多くの仲間とMcWhinneyの教科書のおかげです。同じ考え方、同じ行動の型、同じ感情の向け方を持つそれら医師たちを自分の中に見いだすことが、自分がなにものであるかを教えてくれました。ここまでに25年の年月を要したのでしたが。うーん、長い。長すぎだよ。もう50歳だものね〜
そういえば、これと似たようなことをすでに20年ほども昔に経験していました。そう、息子に”とうさん”(記憶の中では彼が生後10ヶ月くらい)と呼ばれて、自分が父親であることを全身で納得した時のことでした。父として生きて行く覚悟をした時のことでした。

2008年9月24日水曜日

後期研修:地域医療のidentityに関する考察

先日、医師の後期研修説明会に参加しました。医師免許を獲得して最初の2年間は、1つの専門に偏らない医師としての基本的な臨床能力を確保する期間で初期研修と呼ばれています。その後の3年程度は後期研修ということで、おおまかに自分の将来を決めるような専門的な研修が中心になる期間と位置づけられています。私の所属する地域医療振興協会の研修病院は小規模な病院が多いため、総合的な臨床能力が求められます。また自治医科大学の卒業生が多いということで各科による縦割りの弊害はかなり少ないと思います。意図したものではないという意味で自然発生的ではありますが、総合診療を実践するのに適した研修ができます。
ここまではいいのです。この後期研修を受けることで、総合診療・地域医療の道を進むための基礎体力と考察力をつけるということであれば最高に良いのです。問題があるとすれば、やはりidentityに関することだろうと思います。いまだに臓器別の専門医が大多数を占める中、なんでもみること・みようとすることを通して人や地域の役に立つという大きな価値感とともにあることを意識し、またそういうタイプの専門性を持った医師が社会から認められ求められていること(つまりはidentityということですよね)を、これらの研修施設で意識して研修を提供するのでなければ、missionとして成り立たないのではないかと思います。理念こそが人を動かすものだと信じています。その実現のための後期研修を支援する尾駮診療所でありたいです。
 

2008年9月9日火曜日

若い学習者へーきちんと間違うことー

外来で診察をするようになった君。君はなにより診断学を学ばなければならない。基本的な技術はもちろん必要だし、検査が不必要だとは口が裂けてもいわない。患者さんの気持ちに寄り添うこと、身だしなみに気をつけること、はきはきとした受け答えをすること、もちろん全部大切。しかしやはり、処方する薬の名前を覚えるよりも、検査のオーダーを出せるよりも、ちょっと専門用語を使って煙に巻くよりも、知らないことを知ったように言う言葉を覚えるよりも、まずは診断の方法を知る必要がある。例えばきちんと間違うということも、診断学の基本に沿わなければ到底できないことだ。そう、きちんと間違うことさえできないのだ。すべてが行き当たりばったりでは経験とは言えない。思い出にしかならないではないか。いくら難しい症例を総合病院で治療にあたった経験があっても、外来の診断をするには十分ではない。”それはクローン病ではありません”という診断名はない。
25年前の僕へ。君は勉強の仕方が間違っている。外来診療を中心にした場合、もっとも重要なのは診断学だ。それにそった学習の仕方が必要なのだ。仮説ー演繹;時間の解析・解剖の解析・病態生理ー実証の繰り返し、その精度を高めるための一連の行動をこそ医師の学習と言うのだ。反論はいろいろあるだろうけど、25年後の白髪の僕の話は伊達ではないぜ。

2008年9月2日火曜日

ボトムアップの地域医療:その名はBSAP(ビーサップ)

 先日認知症の研修会に参加しました。認知症の方々が地域で長く暮らせるために乗り越えるべき障壁の1つは、データからも経験からも周辺症状と言われる状態です。例えば幻覚や妄想でご主人をせめる。自分の生家に帰ることを繰り返し訴え、外に出て行ってしまう。例えば二度と帰らない、失われた大切な人と幻覚で会話する(・・涙)。
 激烈な症状に対して一般病院でも介護施設でもお手上げのことが多く、そのほとんどは精神科のお世話になっています。精神病棟も余裕があるわけでもなく大抵は強い精神安定剤を使用するのですが、微調整も外来では難しく、結構寝たきりになったりします。認知症の人は増える一方なのに、政府と国の医療対策ときたら、いつまでもトップダウンの紋切り型で、教科書的な知識を講習すればなんとかなると思っているのです、きっと。 
 この研修会は、方向が逆、ボトムアップです。周辺症状への対応を薬剤コントロールのレベルから底上げし、全体の介入を地域の医師と関連スタッフというチームで行うというものです。ここには行政の上から下という流れはありません。個人・ご家族の苦しみへの共感から始まり、医療技術を高いレベルで使用し、その地域のチームで支えてゆく。やがては地域そのものを動かすことになるだろうこの取り組みは、10年前僕らが青森地域医療研究会の設立目的で述べた方法そのものです。その名は、BSAP-BPSD(周辺症状のこと)Support Area Project-。頑張れビーサップ!

2008年8月17日日曜日

full metal なシャボン玉を飛ばせ

 先日8月9日、ついに新しい診療施設・組織(heart station)に関するワークショップを行いました。村の保健福祉・医療分野の方たち、伊東市民病院の研修医さんや弘前大学医学部の学生さんたち、そして健康作りに感心のある村の方たち、総勢70名の大きなものになりました。およそ5時間にわたる研究集会にもかかわらず真剣に討議いただき、ただただ感謝の一言です。本当に楽しかった。ただ、その感動や感慨をうまくまとめることができず、なかば放心状態で1ヶ月が過ぎてしまいました。
 楽しいコミュニティー作りと地域医療の実践、そして地域医療の研究・教育施設の運営を連動させたその全体をheart station projectと呼んでいます。3−4年後を目指した計画で、今回はその第一歩となるワークショップでした。夢のようなvisionとそれに連なるように浮上するアイデアの数々が、夏の陽光を浴びて空に舞い上がる無数の美しいシャボン玉のようで、僕は(僕たちは)軽い眩暈の中で打ち震えるようでした。
 しかしながら、シャボン玉が風にまけずに空高く舞い上がるには、おもいっきり現実的な対応と戦略が必要になるはずです。僕らは・・・full metalなシャボン玉をつくろう。そして皆の力で空高く飛ばそう。あらためて、参加いただいた方たちのご協力に感謝いたします。


2008年7月18日金曜日

フィールドスクールにおいで

 地域医療のfield schoolをつくるのだ、という大言壮語壮語をしてしまった。この地域の医師確保問題が発端ではあったのですが、先日健康づくり推進協議会という村組織のメンバーを前にスライドを交えながら勢いでしゃべってしまいました。
 ただの診療所ではない、コミュニティーの中で地域医療に適した医師をつくる場所、逆にその相互関係を通じてコミュニティー自体も健やかさを増すような仕組み。その中で行われる新しい研究スタイルの確立と実践、教育をめざす。”コミュニティーづくり”と”地域医療の実践”と”地域医療を行う医師(総合医・家庭医)の育成”を同時に行う仕組みがつくりたい。財源に比較的余裕のあるこの六ヶ所村だからこそできるはずだー、と言っている僕がいました。フ〜。何様だ・・
 だけれど、そんなことができたなら、本当にすごいと思いませんか?来年の医師確保さえ定かではないけれど、とりあえず未来のfield schoolで待ってます。誰か僕の声が聞こえますか?
 

2008年7月11日金曜日

川の流れと地域医療と

川は流れ続けることにその本体がある。どのポイントをとりあげてもそれは影のようなものだ。捕まえればすぐに過去になってゆく。現在だけがあるだけだ。・・・まるで吉田兼好だ。きっとそのような意味だったのだと、うろ覚えの記憶を引っ張り出してみる。いま初めて分かったような気がする。なぜなのだろう?年齢的なものなのだろうか。不思議なことに以前より少し高い視点で日常をみるようになっている。そのくせ涙もろくもなっている。目の前の現実がまるで思い出のような感傷をともなったりするから。これらのことをひっくるめて”としをとった”ということなら、結構面白いじゃん、老化。ただ、たしかに足腰の弱体化には閉口してしまうので、できるだけ時間を作ってプールに通っています。そうそう、体力も地域医療を継続するには必要なことなのだ。ずっと水泳ビギナーのままだけれど。

2008年7月4日金曜日

君の頭を貸してくれ

若い研修医や医学生とのお話。診断の検討をしていて、予想外の展開になることがあります。分からないことが分かるーこれが二重構造になっていて面白い。彼がわからないというその場所の彼にとっての発見でもあり、同時にそこが分からない彼をしらなかったということを発見するこちら側の驚きがあります。ここまで認識できた上でその解決法を2人で考えていると、奇妙な共同作業になって行きます。それは新しいプロジェクトの様相を帯び始めてくるのですが、どうもこれが単独の頭の中で発生したとは思えず、お互いの頭の中が一緒になって出てきたような感じなのです。昔風に言えばアウフヘーベン。ちょっと違うか?それにしてもdiscussionって面白いものだなあ、と思います。年齢差は20歳。でもそんなの関係ないようです。

2008年6月22日日曜日

コーヒー5杯分の結論

 大学の研究室ではなくて、一般の外来診療や地域医療の中で、人を対象にして行う研究の一般は臨床研究と呼ばれています。家庭医療学会でもプライマリ・ケア学会でも世界家庭医療学会でも、ここ数年よく言われています。10年くらい前に僕らもそのような活動をしていたのだし。だけど、できない。学会が騒ぐのも、裏を返せば実際にはできていないからでしょう。
 近々京都大学の福原教授に臨床研究のお話を伺うことになっていて、今、付け焼き刃的に疫学や研究の本を読んでいます。うーん、読みづらい。眠くなる。もう、コーヒー5杯目だよ、と女房の声がする。研究発表で世界を変える気なんてない。むしろ、自分の人間性が臨床に与える影響をなんとかしたいと思う。自分の心理コントロールと改善が課題であるなんてことが、そのまま研究になってくれたらいいのになあ。教授に聴いてみようかな。
 なぜ臨床研究ができないかという研究(?!)も発表されています。時間と仕事の制約の他に、患者さんとの関係にあたえる影響を心配したり、大学の研究者に対する疎外感(自分はただ利用されるだけ)や怒りがあるようでした。謙虚に、本当に患者さんのためになることを考えて行うのでなければ、そして臨床医との共同作業であることに十分気を遣わなければ、臨床医の反感をかうことになるのだと思います。いろいろな意味でむずかしいですね。

2008年6月15日日曜日

遠い目標、遠い星。

岡山で行われたプライマリ・ケア学会に行ってきました。永井友二郎先生という、この学会の創始者ともいうべきご高齢の先生の講演は感動的でした。自らの経験をもとに深く考察され、”プライマリ・ケアこそ究極の医学”と論ずるに至るその確信と迫力が、おどろくほど穏やかに語る静謐さを裏打ちして、聴く者たちの心を振るわせているようでした。澄み切った冷たい水をのみほすような感覚。或いは北極星。日本にもちゃんといるではないか。あのような医師になりたい。あのように生きてみたい。しかし遠い、本当に遠い目標。

2008年6月12日木曜日

疾患名は抽象的

疾患名は抽象的な概念なので、誰にでも使えるが実は誰にも適応できない。その人の背景や生い立ちや家族や社会、或いはその人の信条のという全体性の中にその疾患名を置くと、えらく場違いな感じがする。映画の中に突然アニメーションを組み込んだときのあの違和感に似ています。同じ感冒だって、その人その人でまったく違った意味や重みを持つものなので、急性上気道炎という言葉に翻訳した時におこる抽象化に気をつけた方がよいと思う。それでは分かったことにならないと思う・・・ということを、若い医師に話すことがあります。そんなことを考えても考えていなくても処方箋の内容は同じだったりするので、意味がないのではないか、とも言われます。多分違うのは、話す態度や物腰だろうと思うのですが、なぜこのような違いが発生するかというと、全体性の中でみた疾患概念の変貌に驚きを感じるからなのだと思います。例え話を1つ。疾患概念を墨汁の1滴に、ある人の全体性をお皿に入った水とします。お皿の形や大きさや色、或いはその深さによって、或いは滴下するスピードによっても、落ちた墨汁が水面にあらわす模様は全く独特なものになるでしょう。そのお皿さえ、時とともに変化しますから毎回が違ったものになります。驚くべきことですね。

2008年6月1日日曜日

伝わること、その周辺

意図したものがつたわらない。或いは意図していなことが伝わっている。たとえば気持ちの入らない空返事で伝わるのは、”君には興味がない”ということだったりします。地域医療を学ぶ学生さんに、コミュニケーションとネットワークにおける立体構造(話せば長くなるのですが)の意識が決定的に重要だと力説する僕自身のコミュニケーション能力の低さが露呈していたりします。もともとコミュニケーション能力の高い人は、そんなこと意識しないでできてしまうので、ことさら重み付けをする必要がないのだと思います。え?それがそんなに大変なことなの?という感じ。めいっぱい気張って多分人並みのコミュニケーション能力なので、そうでない人からみると理解しがたいほど疲れたりします。僕は一流の家庭医には決してなれないだろうと深く確信する理由がここにあります。どうみても僕より適性があるような学生さんに、K教授の周辺でよく遭遇します。教授が伝えているものは多分単なる知識ではありません。意図していないものが、或いは言葉に表現していないものが伝わるという不思議がここにもありますね。

2008年5月25日日曜日

結婚は覚悟でしょ

 先日、研修医のI君たちとの飲み会の席。ほとんど酒の飲めない自分でしたが、その日はI君の奥様も出席されていたので、ほろ酔い気分も手伝って、なんだかそんな話になりました。そう、医師はどうやってその将来を決めるのかということなのですが。
 現在、医師になって2−3年目で将来の方向を決めている人は少ないのではないでしょうか。臨床研修制度が始まる前には、医師免許を取得する前後で医局を選ぶことが将来を決める上で決定的に重要だったと思います。医局が決まれば多くの先輩の例を参考におおよその人生設計までできていたのだと思います。診療科を選ぶということは、疾患ベースのパラダイムの中にあって種類を選ぶということですから、いずれを選んでも価値観に動揺はないはずです。
 ところが、地域・家庭医療に進むとなると話は違います。パラダイムが違うので価値観が違う。既存のパラダイムの人たちには認められなくて寂しいし、包括性や物語性の中で活動する医師には多くに技術とともに多様性に対応する柔軟性も求められるのです。うーん、難しそう。だけどね、ここでようやく結婚の話にもどると、つまりそれを選ぶと言うことはその価値に惚れるということで、できる・できないの話ではなく、やるか・やらないかの覚悟の問題ということになるのでした。結婚する女性は、実家を捨て、名字をすて、生まれ故郷を捨て、友人を捨てて嫁いでくるのだから、男の僕らは太刀打ちできないくらいすごい度胸をもっているということなのだぜ。

2008年5月8日木曜日

よい臨床医になりたいです

息を引き取った方、その周りに集まるご家族。50歳となり、僕自身の感情の動揺が大きくなっている。とてもとても若い医師のころ、疾患・病態の理解やそれに立ち向かうことの訓練に明け暮れていたころ、死に立ち会っても僕は本当に泣くなんてことはなかった。そうだ、医師は科学者なのだからいつも冷静にあるべきだ。感情的になってはいけない、となんとなく知ったような台詞をつぶやいてもいたが、真相は今にして思えば違っていた。僕は本当に悲しくなかったのだから。自分の冷淡さを、都合の良い、みるからに取って付けたような台詞で覆い隠していただけなのだと思う。この中年と呼ばれる年齢で、子供たちが成長し、妻と再び二人きりになり、お互いの老いと死を感じるようになり、尾駮沼の鳥に永遠の影を感じたり、星が瞬いたり、ロマンチックなんだか、センチメンタルなんだか、誇大妄想なんだか、馬鹿なんだか。これからもっと勉強して、良い臨床医になりたいです。

2008年4月28日月曜日

一緒に悩む人募集中

 先月、地元大学医学部の授業を参観してきました。身体所見の講義と実習で、外来のカンファランスルームに学生さんが5人と教授が一人。自分の学生のころの講義と比べてみると、いささかレベルの高い内容で、こちらに質問のとばっちりが来たらどうしよう、なんて、まるで学生時代と同じビビリ方が情けない。・・・とばっちりなし。フ〜。K教授、ありがとう。
 教育のことを自分が述べることのおこがましさを感じつつも、実習に来てくれる若い研修医や学生の方たちのことをよく考えます。地域医療とはなにか?それを教えるというのはどういうことか?そもそも教育とはなんなのか?
 地域医療そのものは、あるフィールドで行われる(大抵は行政区域)医療サービスそのもののことで、フィールドの規模に関係のない単語です。サービスの内容も項目別にみればほぼ同じす。つまり相似なので、基本的にはどこで教育しても同じことになるのですが、ただし田舎でそれをみることの意義は確かにあるのです。医療サービスの流れ、福祉や保健や行政そして生活との関連が見えやすいという点です。市部の医療機関では、病院という箱の中での考え方が中心になりがちで、いくら連携といったって、これは実感しがたいと思います。フィールドの中で生活のレベルから医療を客観視できること。これは田舎で実習を行うことの最大のアドバンテージだと思います。
 しかし、それでも思うのです。田舎で医療活動を見せれば、それが教育なのか、と。エジプトに見学にいけば確かに歴史の眩暈を実感できます。京都にも修学旅行に行きましたし。しかしその歴史の意味、意識の動きに立ち入らなければ、結局、観光旅行でしょう。僕らがそうであったように、一時の思い出に終わらないことを願うのみです。なに言ってんだろう・・・医療が本来生活レベルであることが基本なら、医師と患者の関係も、診断や治療の行いも、なぐさめも優しさも本来は生活レベルであること。それを思い出としてではなく、積極的に経験することの重要性。積極的に生活レベルの医師になることの価値観と方法論。コンテンツにこだわらない、その圧倒的なスタイルこそ伝えたいと思うのですが、力不足の自分です。一緒に悩んでくれませんか、誰か。

2008年4月16日水曜日

村上春樹的な

やはりどうしても、ただの偶然とは思えない。深層のあるものに、なんらかの意思に、惹かれているような気がする。息子と同じ年代のかつては外来の患者さんであった女の子から手紙が届いた。ある雑誌に載った小さな記事に僕のことが書いてあって、それをみつけてくれたらしい。それ自体も驚くべきことだったのですが、その内容にはもっと驚きました。都市計画・まち作り・ホームレス、現実との乖離、研究生活。それは彼女の経験をつづったものでしたが、いま現在この村で行おうとしていることと非常に似通った領域のものだったから。ホームレスの話も、同じ地域・家庭医療を行っている仲間に聞いていたことだし、なんと今月号の医学雑誌の特集がホームレスでした。なんか不思議な感じです。しかし、決して悪くはない気がします。これらが未来におけるよい徴でありますように。

2008年4月9日水曜日

考察を考察する

通常の仕事が終わった午後5時ころから、毎日ケースの検討会を行っています。X線写真や心電図の検討から始まって、外来診断の問題点や行動変容の話題や医師確保問題まで多岐にわたっていて、大抵終わるのは午後7時ころです。話題があっちに行ったり、こっちに来たりとめまぐるしいのが特徴といえば特徴のクリニカルカンファランスです。今日の話題のひとつは、”考察”でした。入院中の方の検討を行っていて、きっかけは思い出せないのですが、退院要約の話になったのでした。そこで”君、君。考察の意味を言ってみたまえ。”と、偉そうに言ってしまったのでした。”君の考察はなっちょらん!”、なんてね。
考察:ものごとを深く考え検討すること。うーん、そうだけれども、あるケースにおける考察をするとはつまり、考えるものごとが、或いは考えるべきテーマを発見できることが大前提なのだと思います。研究だってなんだって、それが問題であることの認識なしには、なにも始まらない道理です。そしてそれに対する仮説を論理的に組み立てて、今の場合ならば、ケースとつきあわせて証明しようとすることが考察の構造なのではないかな?え〜ちなみに僕の退院要約は・・・相当なっちょらん・・・後輩よ、許しておくれ。

2008年3月30日日曜日

健康づくり推進協議会ー2

 先日お昼休みの時間を利用して、村の健康づくり推進協議会に参加してきました。これは以前にもブログで紹介したものですが、平成19年度の保健活動のまとめと来年度の展望を保健師さんたちが村の各団体代表に説明し質疑応答をして了承を得るものです。健康日本21の中間報告は、やはり、少なくともこの村では惨敗だったようです。ほとんどすべての項目で4年前より悪化しているのでした。説明を聞いているフロアから目立った質問もなく、来年度以降の対策に説明は進行。自殺予防の話では20分くらいかけて参加者からの意見を募り、来年度からの対策に生かしたいとのこと。この時点は僕は午後の診察のため退出。
 厚労省では健康日本21にメタボ健診をとりいれて巻き返しをねらっているようなのです。またしても健康産業の活性化は見込まれるものの、循環器系疾患による死亡率低下に寄与できるのかは不明。責任を(国保では)各自治体にもたせ、ペナルティーまで科していますが、こういったやりかたで各自が生活を変え健康になれる思うその思考回路がわからない。自分の生活のほんの一部を変えるのだって相当大変なことなのにね。たばこ1箱を千円にするほうが、よっぽど実効性がありそうです。会議に参加した皆も多分、国のやり方に半ばあきれてたのではないかなあ。

2008年3月26日水曜日

愛していると言ってくれ

 外来で伺ういろいろな話、病にまつわる物語。ほんのわずかな時間の中ではあるのですが、追体験或いは追想していると、なんだか大抵せつなくなってきます。ときには嵐の後の青空のような物語にこちらが力を与えられる場合もありますけれど。僕が発するほんのささやかな一言でさえ、抱きしめるようにして帰って行く人がいて、それをみた僕自身が抱きしめられているような感覚があって、多分僕と彼の明日は少しかわるでしょう。
 医療のコア或いは基本動機は、このような双方向の共感にあると信じています。それは科学者としてあることを求められるうちに忘れられてしまった、本当はもっとも大切は感情なのだと思います。関係性の上に展開される家庭医療が、共感を重要視するのは当然のことでした。

2008年3月20日木曜日

総合医・家庭医とデパートの話

 前回のワークショップに関連した話。田舎の地域医療と村作りの話なので、最初はデパートと総合病院の話は抜きにしようと思っていました。”総合病院が欲しい。デパートが欲しい。以上。”となるのを恐れていたのでした。でも考えてみれば、欲しいのは総合病院やデパートという建物そのものではなくて、各専門家の診察や欲しい品物だろうと思います。さて、ここからは想像の世界。インターネットを利用した大きな画像が目の前にあり、専門家が現れ、総合医・家庭医と患者さんがこちら側にいるとします。患者さんの本当の不安や心配を医療という言葉に翻訳して専門家に伝える総合医・家庭医が当の患者さんとともにいて、一方専門家からは彼が医学的な判断に必要な診察や処置の指示で行うのです。患者さんが納得いけば、総合医・家庭医がひきつづき診療し、場合によっては後方病院に連絡することになるでしょうが、ただの紹介とは違う満足感がえられるように思います。わざわざデパートにいかなくても、最高に見立ての良い信頼できる知り合いから紹介された商品を買うほうが良い場合が多々ありますよね。インターネット環境の整備はできそうですし、専門家も定年退職された教授先生で地域医療に理解のある方にリーゾナブルな報酬でお願いできるかも・・・するとあとはレベルの高い信頼のおける総合医・家庭医がいれば良いことになります。みんな頑張ろうね。

地域医療は地域作りと関連するー明日の尾駮診療所

 昨日、『明日の尾駮診療所』というタイトルのワークショップを行いました。六ヶ所村の医師確保問題がその動機付けになってはいるのですが、それも含めて目まぐるしく変わる社会に適応する必要があったからなのでした。いわゆるメタボ健診は、惨敗に終わった(と思う)健康日本21の後継者なので、ペナルティを科してまで保健指導を徹底させますが、現在の村では独自に十分な対応はできません。国保以外の方はすべて村外の施設にお願いすることになるでしょう。福祉・介護の面でもうまく機能できていないのです。村独自ですべてやる必要はないとはいえ、上手に運用すれば経済的にも成り立つような新しい形ができると思うのですが。えーい、こうなればワークショップだ!
 ワークショップは地域ケア会議のメンバーを主体にした小さなものでしたが、医療や保健や福祉にし限定しない生活の面も含めた”明日の六ヶ所村”を語り合いました。シビアな問題から、小学生の夢のような未来まで、平均年齢推定45歳のメンバーがおよそ2時間。ほのぼのと真剣に話す姿をみていて思いました。地域の将来に関与していることの面白さと地域生活からボトムアップする医療のあり方を僕らは正当にも地域アプローチとよぶべきだと。
 8月9日(土)と10日(日)に少し大きなワークショップを開催します。村民、医学生、研修医、議員さんなどを呼んでワイワイやりたいと思います。仮題はもちろん『明日の尾駮診療所』。どんなもんでしょ?

2008年3月14日金曜日

医師会の認知症講座ー豪腕炸裂の春

 先日、医師会主催の認知症対応講座に参加しました。日曜日の午前9時半から午後4時ころまでのなかなかハードな講習会でした。医師会の集まりではいつも感心するのだけれど、かなり高齢な先生たちがほとんど居眠りもせずにまじめに聴講している姿は、いろいろ言われいるものの、医師という職業の倫理性や勤勉さや誠実さを十分に感じるものです。見習わなきゃ。
 内容は認知症の基礎と診断・治療の基本をおさえ、さらに地域連携まで入ったスタンダードなものです。眼科の先生もいらっしゃる中で、この基本的なスタンダードさは大切だと思います。終了後は知事名で認定書が郵送されるのだそうです。ただ、これを有効に臨床にいかせるかどうかは別かもしれません。たとえば野球のルールを教わっても、すぐにできるなんとことはありません。また本人が野球が好きでなかったらやっばり野球なんてやらないでしょう。
 僕は青森地域医療研究会(COMER-net Aomori:リンクをご参照ください)というのを主催しているのですが、実は6年くらい前に認知症に関する研究会を始めていました。仲間で勉強会を行い、問題点を拾い上げ、広域の担当者研修会のようなものを立ち上げていたのですが、なかなか活動の維持や発展は難しかったのでした。ましてや近隣のお医者さんたちが一斉に学習を始めるなどという事態は想像もできませんでした。国ー県の流れで、認定書を発行することの威力を目の当たりにしたような気がしました。おそるべし、権力機構。豪腕炸裂だなあ。一方、僕は僕で久々に春めいた日和もあって、これらのことが遠い出来事のような感じもするのだけれど、”それでも個人の力をこそ信じるのだ”とつぶやきながら、遅い帰路についたのでした。

2008年3月5日水曜日

ただいま引っ越し中に見つけたもの

診療所の所長室を引っ越しています。同じ階の2つとなりの部屋なのですが、この18年間にたまった書類やら本やら、あるいは何かの記念品やらの多いこと・・・それより驚くべきは、そのほとんどがただそこに置いてあるだけで、ほぼ全く使われていなかったことでした。本なども確かに読んで赤線を引いた形跡はあるのですが、その記憶がない。昔の記念写真の僕は確かに相当若くて髪の毛も真っ黒ですが、ウーム、考えていることはあんまり変わってないや。
 内容は無限にあるのだけれど、それらはすぐに役立たなくなったり忘れてしまったりだから、本当に重要なのはその形式あるいはスタイルなのだと思います。ところで、これを医療に敷衍すると、専門医と総合医・家庭医の話にもなるのだけれど、皆な気づいているのかな。意味を決定づけるのは、内容ではなくて、その形式/スタイルなのだということを。ある形式/スタイルを受け入れるということは、その形式/スタイルとそれが指し示す価値観も共有することにもなりますね。
 現実逃避はいけない。引っ越しをすすめなきゃ。
 

2008年3月2日日曜日

多量飲酒への外来介入研究

先日、神奈川県にある久里浜アルコール症センターに行ってきました。アルコール依存症というレベルではないけれど、多量飲酒者(おおむね毎日3合以上のむ人たち)を対象にした節酒介入をプライマリレベルで行うためのbrief intervention(BI:短時間の介入方法)の研究会でした。医師よりも保健師さんが多かったようです。先進国で行われてないのは日本だけとか(またか!)。このBIによる節酒効果は世界的に確かめられているらしいのですが、日本でもその実証が必要というわけで、たまたま人づてに僕にもご指名があったのでした。一日目の夜に、これもたまたま知人の送別会に横須賀で遭遇して、いつにない多量飲酒で(僕は下戸なのですが)2日目が二日酔い気味だったのは、自分でもあきれましたが。
BI自体はよく考えられたものです。認知行動療法を基本にした、ワークブックと飲酒日誌の組み合わせを使った介入です。1年間でトータル5回の面接があり1回目と2回目は約15分かかりますが、その他は5分程度で終わるように設定されています。介入レベルは3群にわかれており、コントロール群(資料だけわたす)、B群(ワークブックを使用して介入)、D群(さらに飲酒日誌も使用して介入)の節酒効果を比べるのだそうです。症例を集めるのが大変でさらに外来の診療に組み込むというところに、保健師さんと違った難しさがあります。外来大丈夫かなあ?
でも、引き受けました。BIの手法に、慢性疾患に対する面接技法のヒントがありそうですし、応用すれば各疾患別のワークブックが作れそうな感じがしたからです。後輩たちよ、ちょっと無理してでも研究してみようよ。自分を高めるには、それなりの負担は避けられないのだから。・・・事後承諾ですまんのだけど。

2008年2月28日木曜日

network diver-明日の医師を思う

 恥ずかしながら、今日初めて職場のホームページを作ってみました。とてもシンプルですっきりした、見るからに初心者のものです。これが一般に認知されるまでは、とてつもない時間がかかるのだろうと思うのですが、それでも明らかにネット社会に触れている感触があります。ただしHPの場合はある意味で看板みたいなものですから主張が一方的です。顔を見られながらのコミュニケーションではないので意識だけが虚空に突出している感じが妙です。コメントをもらうのも勇気がいります。なにせ、唐突に固い意識のかたまりをぶつけられそうだから・・・
 患者さんたちとそのご家族、ご近所と世間。挨拶するときのほんの少しのまなざしや息づかいや、声のトーンで現実のネットはいつも揺らいでいるようです。これを文脈といっても良いのだけれど、自分という要素が抜き差しならずに係わってしまうので、海のような感触のネットワークの中で、そのネットワーク自体を形成している自分というイメージです。この中で行なわれる医療という行為は、かなり意識的である必要があると思うのです。network diverー明日の医師は、このように言われるかもしれません。それは自治医科大学の卒業生たちが黙々と歩き続けてきた道に刻まれた影から、新たな生命をえて飛び立つ鳥たちのようだ。え〜、なんとなくわかりますか?ちょっと調子に乗りすぎました。では、また。

2008年1月31日木曜日

自殺予防という活動と質的研究の気配

 健康づくり推進会議というものが各自治体で行われています。各種団体の代表が集まり、保健師さんから健康日本21の進捗状況の報告がされました。肝煎りで始まった健康日本21ですが、30年来の課題は変わることもなく、個別健康学習の効果やグループ作りも不発のようの思えます。新しいタイトルになり、たしかに経済効果はあっただろうけれど・・・決まった形を押しつけることが科学的なのだろうか。
 ところで、会議では自殺に関する報告もありました。県内で自殺予防に取り組んでいる地域は自殺率も低いのだそうで、こちらでもなにか対策を立てましょうというお話。まずは、なくなられた方の動機や背景を分析するのだそうです。原因別の数をカウントして、比較して、グラフにして、分析してもいいのだけれど、常識的には経済問題と社会的な孤立が大きな要因だろうと思う。実は意識の高い人たちのグループインタビューで十分ではないのだろうか。他地域の成功例では、多重債務の相談を受ける内容のビデオを各戸に配布、同時にビデオの中で自治体の長が命の大切さを訴えていたのだそうです。このような活動を質的研究(action research)と呼んでも間違いではないのじゃないかな。地域医療や家庭医療には研究が少ないからacademicではないと言われることがあります。研究のスタイルがそもそも違うのだと思います。
 
 

2008年1月30日水曜日

いもあらいに行く

 「いもあらいに行く」と初めて聞いたときは、ちょうど長芋の収穫時期だったので、「それは大変な作業ですね。腰を痛めないようにね。」と受けたのでした。「そうなのさ。腰の痛みが治らないから三沢までいってくる。バスで迎えにきてくれるしの〜。新しい機械ですごく性能がよくて、寝てればなんでもわかるんだと。」「それ、ひょっとしてMRIのこと?」「そうそう、そのイモアライさ。」
 車で一時間ほど南にある整形外科クリニックからはほぼ毎日送迎バスが出ていて、大勢のご老人が乗り込んでゆく。建物は新しくモダン。MRIは基本検査らしい。治療の内容は詳しく知らないが、拝見する処方は通常のもの。「一年前は骨の変形があったと言われたから、今年もまたやってもらおうと思ってるんだ〜。まだ痛いからなあ。」 ウーム。
 田舎に住むご老人が求める高度医療・専門医療。彼らに非はない。そのような日本の医療物語にちゃんと乗っているだけだ。地域医療という特別なものを求める人はいない。問題の解決を求めて自由な選択があり、田舎で満たされない(治らない)のだから送迎バス付きの専門施設はむしろ望むべくして成立している。さらにその地域での物語あるいは口コミも影響力が強く、外部からのコントロールは不可能に見える。論理ではなく、信念に近いものだから。
 医療費の効率化にはおそらく医療制度の変更が必要だろう。新しい形になれば、物語も変容せざるを得ないだろう。ただし新たな物語に正当性と希望を感じるのでなければ、ついに主流とはなりえないとも思う。僕らは準備ができているだろうか?患者中心医療の方法と地域アプローチの実践は、まず自分を変えてゆく覚悟がなければならないのだからね。新しい人よ、現れよ。

 

2008年1月26日土曜日

認知症をネットワーク障害としてとらえる

 先日、大雪の日に、薬剤メーカーのプロパーさんがアルツハイマー型認知症のテレビ講演会の案内を届けてくれた。その折NHKの認知症特番の話にもになって、相変わらず一般外来の診断を含めた対応能力の低さが問題になっていたのだと。さらに何時間かの講習を受けると、なんとか認定医になれるのだとか。ありゃまー。
 認知症は確かに病理変化が明らかになりつつある疾患ではあるけれど、現実のそれは家族を含めた地域社会の問題とし立ち現れるのだから、社会病理として捉える視点は非常に重要だと思います。
 具体的なイメージでとらえるために、人と人との間にある目に見えない紐で編みこまれた大きなネットを想像してみます。問題になっている人はその中央に位置しているとします。その重みが増すほどネットの中央がくぼみ、ネットの結び目にあたる各人の張力が強くなるのがわかります。ネットワークはひずみ、弱いところは切れてしまうでしょう。このネットワークの性質を知ることー強さや弱さ、隙間の大きさや広がりーなしに、個人に対応するのは難しい・・・。講習会で得た疾病の知識は、個別のネットワークの感触をえた上で利用されないならば、そもそも臨床医はいらないでしょう。駅の自動切符販売機のようなものがあれば良いだけですから。地域医療の重要な方法の一つは、この個別化されたネットワーク或いはフィールドの理解と運用にあることは間違いありません。