とてもさらさらとした細やかな雪が、それは強い寒気の中で短時間に生成された粉雪だから、髪にまとわりつくのでもなく、合繊の防寒着にかすかな音をたてながら、村に降りそそいでいる。この季節になればあたりまえのありふれた様態に、わけもなく多くの記憶が重なってゆく時は、白い吐息にもなにかのささやきが混じるようだ。ベルグソンの言うように記憶は体に宿るものならば、この感慨も、記憶の再生というのに等しいのだろう。小学生のころ、あの街角で粉雪の頃に兄とともに走って駄菓子屋さんの小さなショーウィンドウに置かれていた小さなデコレーションケーキを見に行ったこと。高校生の頃大晦日の夜、一人でお寺の境内まで歩いていった時にみた粉雪がたき火に照らされて、まるで桜の花びらのようだったこと。子供たちと息を切らせてそりレースをしたときに降っていた粉雪のこと、彼らの紅潮した頬。
雪は幻想的である。この眩暈をともなうような既視感や、時間の壁が消失したような不思議な感覚は、ちょっとした村上春樹の世界のようだ。という訳で、この雪の世界で行う医療や研修というのは、けっこう楽しいということの宣伝になっているだろうか(・・・今後もしつこく、地味に、雪国研修キャンペーンを継続する予定)。ちなみに、さっきの眩暈をともなう既視感というのは、精神運動発作ということではないですからね、念のため。
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