2009年12月3日木曜日

being radical to break the frame

 ”現場において、それを行い続けているのには特有の起源と理由があるのだから、いきなり否定するのは乱暴である”と、僕はこのように言ったのだった。こういう言い方自体はそれなりの理屈を付与することはできるのだけれど(なんでも理屈はつけれるものだし)、若手の医師に指摘されたことに動揺して放った苦し紛れの言い訳にも聞こえる。うん、多分両方あるのだけれど、大人ぶったその言い方が気に食わない。自分で汚してしまった悲しみに降り積もる雪は冷たいな。
 結局のところ、重要なのはその動揺をきちんと自覚的に検討できるかどうかということなのだ。動揺するのは、もともとそのことが、自分に動揺をあたえるような不安定なレベルのものであって、潜在意識として継続されていたということなのだ。さらに、起源にもどって考えるという動作は、勢いで言ったにしろ、きっと有効だろうし、違ったであろう未来に出会うために必要な所作に違いない。これこそradicalという言葉の本来の意味なのだし、かたくなな自分を変える有効なあり方の一つかもしれない。

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