2010年6月14日月曜日

even in a dream

 いまも忘れられない光景がある。特別養護老人ホームでのこと。彼はもうすぐ90歳になる。多少の高血圧がある他は身体的な問題は見られなかった。施設の部屋は4人部屋であったが、十分なスペースがあり、古い診療所の病棟に比べれば断然住み心地は良い。外側に面して大きな窓があり、彼はよくその前に立っては一つの動作を繰り返していた。外に向かって何度も手招きしながら、”母さん、来ーい。母さん、来ーい。”と呼ぶのだった。窓の外、遠くに見える妻の姿は、彼以外の誰にも見えない。朝も昼も、晴れていても、雪が降りしきる日も、夜の帳が降りようと、彼はいつも繰り返していた。
 幻覚でも、夢でも、なんでも、妻に会えること。しかしながら、決して自分の傍らには来てくれないこと。達せられることのない望み。そのたびに全てを忘れてしまう彼は幸せだったのか。ただ悲しみが繰り返されるだけなのか。薬での対応を僕は口にしなかったし、介護して下さる人たちも言い出さなかった。その透明な哀しみを、いとおしく思っていた。
 なぜ思い出すのだろう?空の青が記憶に及ぼす影響に関する文献を、僕は知らないけれど。

0 件のコメント: