研究会の前に村の介護施設にいる認知症の方々と現場でclownさんたちがコンタクトする。その様子をビデオにおさめて、研究会で討論する、という形式でした。なぜ、そのような言葉を発したか?なぜウクレレを触ってもらったのか?なぜ、その人との会話がはじまったのか?その場で、その人が発するなんらかの意図に反応するその自分に反応するその人にまた反応する。認知症の進んだ人こそが、言葉や社会の枠をこえた素の人間として対応できるのだと。自在。そして感応から始まる絶対的な遅れの自覚。人間への信頼。
よく似ている。外来のあるいは医療や介護の現場そのものの、たゆたうようなその場その場の一瞬の判断と反応が連なる様子は、まるで即興音楽のようだ。どちらが決めるわけではないが、両者がいなければ、形成し得ないもの。しかも周囲の状況が変われば、あるいは天候が悪いということでさえ、同一の局面は二度と現れることはない。はかなく永遠なもの。
とても不思議なよい研究会でした(自画自賛・・・)。僕はといえば、お話を聴いていて、息子たちの小さいころの様子とそこにいたはずの若い自分を思い出していたのだけれど。なぜだったろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿