地域医療の中に、どうやら、同じようなものを感じている自分なのですが、こんな風に生きることは恐ろしい。せめて、自分の小ささや力のなさを素直に認めて歩いてゆこうと思う。関係性の風を感じながら歩いてゆこうと思う。miracle apples、どんな味がするのだろう。
2009年10月31日土曜日
miracle apples
『奇跡のりんご』、読みました。無農薬りんごの誕生を夢見て、ついに現実のものとした津軽の男の話。ひたすらの、物狂いの、家族を巻き込んだ壮絶な半生から見えた世界は、虫と土と空と風が人とともにあり、リンゴとともにある、果てしないダイナミックな関係性の世界でした。存在は関係性の中にあり、境界はまぼろしのようだ。この人間の体自体が、外界と腸管の中で溶け合いながら連続してゆくことを思えば、なんとも不思議なこの命であることか。自己とはなにか。他とは誰のことか。まるで仏教の語りを聴いているような感触。
2009年10月24日土曜日
here comes a clown
clownってご存知だろうか。道化師さんのことなのですが、昨日、尾駮診療所で行った”認知症とコミュニティーヘルスケア研究会”という奇妙なタイトルの会にお招きしたのでした。保健、医療と福祉のスタッフとその関係者を対象にしたもので、communicationを主なテーマにしています。認知症自体がcommunity(家庭と地域社会)とcommunicationの病(やまい)なのだという視点から始めた今回が2回目のものすごくローカルな研究会です。
研究会の前に村の介護施設にいる認知症の方々と現場でclownさんたちがコンタクトする。その様子をビデオにおさめて、研究会で討論する、という形式でした。なぜ、そのような言葉を発したか?なぜウクレレを触ってもらったのか?なぜ、その人との会話がはじまったのか?その場で、その人が発するなんらかの意図に反応するその自分に反応するその人にまた反応する。認知症の進んだ人こそが、言葉や社会の枠をこえた素の人間として対応できるのだと。自在。そして感応から始まる絶対的な遅れの自覚。人間への信頼。
よく似ている。外来のあるいは医療や介護の現場そのものの、たゆたうようなその場その場の一瞬の判断と反応が連なる様子は、まるで即興音楽のようだ。どちらが決めるわけではないが、両者がいなければ、形成し得ないもの。しかも周囲の状況が変われば、あるいは天候が悪いということでさえ、同一の局面は二度と現れることはない。はかなく永遠なもの。
とても不思議なよい研究会でした(自画自賛・・・)。僕はといえば、お話を聴いていて、息子たちの小さいころの様子とそこにいたはずの若い自分を思い出していたのだけれど。なぜだったろう。
2009年10月14日水曜日
self conscience, jazz session,relationship
検査したり、検査しなかったり、治療したりしなかったり、診察したり診察さえしなかったり、つまりはなんでもありということなんだ。ただ家庭医/一般医が、多分、ほかの医師と違うところは、多くの選択肢のあることとそれが患者さんとの関係性の中でゆらぎ、選択されるということに自覚的であるということだと思うよ。関係性をコアに置くということは、自分の特性や性格、偏りにも自覚的である必要があるのだけれど、これは意外に難しいんだよ。なんたって生身の人間なので、調子が悪ければ不機嫌になったりするし、相性の悪い人だっているわけだしね。いつも診断理論やPCMの話をrigidなものとして説明しているけれど、瞬間瞬間の関係の中でゆらぐというところはなかなか説明が難しい。結果的には筋道の通ったような外来セッションのように見えるとしても、それは事後的に構成された、後付け的な説明になっていることの方が多いのだしね。病院で行われる専門治療は、決められた方針を、もちろんある程度のゆらぎはあるにしても、完遂するところに特徴があるけれど、プライマリの診療は、ある意味ジャズセッションのような不思議なゆらぎこそ命なんだ。(研修医Tさんとの会話から)
2009年10月6日火曜日
who needs GP/FP?
尾駮診療所に地域研修に来てくれているTさんもかつて総合診療に興味があったのだそうです。教授にそのキャリアの難しさを指摘されて断念した経緯あり。そんな人の迷いに答えるべく家庭医専門性が立ち上がり、プライマリケア3学会が合同し、内部での盛り上がりは近年に例をみないほどなのですが、一般の方たちからは口に上らないGP/FP(GP;general practicioner 一般医 FP;family physician 家庭医)。超高齢化社会の日本では、多くの疾病とともに生きる人の数は必然的に世界一なわけで、社会資本としての医療を考えるなら、GP/FPの必要性と重要性は説明するまでもないのですが、現実の世の中では全くその動きがありません。提供する側がいきりたっても、提供される側にその気がない。これほどよいものなのに、それを欲しない方がおかしい、という言い方は常識的にみておかしい。いくら良い商品でも、それを欲望しない集団には価値がないという一般論があたりまえに通用してしまうのだし。
とろこでそういう人たちの欲望の形式は、やはりラカンのいう、他人の欲望を欲望するということなのであれば、皆の視線の集まるであろう人たちがGP/FPを切に欲望する、という状況が必要だろうと思う。そのPRを誰にお願いするかという問題はあるけれど、それが空虚なプロガバンダで終わらないためには、実力でその魅力が理解されるような、しびれるようなGP/FPの出現が不可欠だ。さて、本日も勉強、勉強。
登録:
投稿 (Atom)