2010年7月20日火曜日

analysis of crying ; an introduction of phenomenology

 泣くということ。最近は確かに涙もろくなっていて、以前ではありえない状況で涙が出る或いは目頭が熱くなる。一般的に年齢によると思われているこの手の変化は、実は同じ表象をとらえるこちらの志向性が大きく変化したことによる感情反応の変化なのだと現象学的な知見は教えてくれる。はかなさの経験、或いは失うことのせつなさを獲得したことで、自分の中の認識は変わっているのだ。音や味や色彩の感じ方に個人差や経験が関係するように、僕の涙もろさにもそのような変遷があるのだろう。僕が生きてきた人生によってもたらされたものであるにしても、この涙もろさは僕に固有の物語では説明がつかない。一所懸命な人を見ると涙が出るということを、そのときにそういう人を見ていたという状況で説明することは難しい。涙もろさの発現には、はかなさ・失うことのせつなさの獲得という認知行動的な変化が必要だったのだ。たぶんDr.F(たびたび登場する僕の友人)が臨床にとりいれようとしていることの内実はこのようなものだと思うのだけれど。
 実は、先日久しぶりに若い女性が泣く姿を見て、その事情を検討する必要ができたのでした。どんな状況で、どうして泣いたのか。彼女の解釈は?希望は?こちらの対応は?これらの物語的な解釈で理解され解決される問題も実際の臨床では多いのですが、ある人たちとっては周りの状況にその責任を帰するよりも、その人にとっての泣くことの意味或いはその認知・行動特性にアプローチしたほうが適切と思われることもあります。そしてそのアプローチの選択は多分やってみてだめだったら、他のアプローチへ、というのが現実的かなあ、と、 やはりこれも経験から獲得した(年取ったと言うことですね)日和見主義を炸裂させつつ思うでした。Dr.F、現象学の入門書やっと一冊読みました。
 

1 件のコメント:

bycomet さんのコメント...

 「何で泣いたのかわからない」という言葉は象徴的かもしれませんね。いくら本人から文脈を引き出そうとしても、泣いた理由はよくわからないかもしれませんから。

 泣くという感情はどんな経験から引き起こされたものだろうか、と現象に辿っていくのが、現象学のアプローチだと思います。このアプローチを本人の文脈から離れるため、文脈非依存性アプローチと呼んでブログで紹介しました。
http://www.bycomet.com/2010/07/2.html

 この記事は一冊の本と先生との議論がきっかけになっています。

 どんな方法論を使って診療するかは関心相関的に決まります。文脈を生かしたほうがいいのか、切り離したほうがいいか、適切に選択していくのが専門技術だと思っています。この部分はこれまであまり記述されてこなかった領域だと思いますが、これから構造化していきたいと思っています。

 診察室での専門記述をさらに高めていきたいです。