研修医のF君、診療所での研修お疲れ様でした。これが最終日ということで、どうしたら青森に、特に六ヶ所村に、医師を呼び寄せられるかという質問をF君にしてみました。青森は食が豊である、四季もはっきりしていて景色は美しく、各季節には特徴的なお祭りもある。人は純朴だし、女性は素直で優しい(人もいる)。それにF君が興味をいだく恐山はすぐそこだ。地域医療に興味もあるし雪にもなれている君だけれど、やっぱりそれでもここに来たいとは言わない?うーん。やっぱり。彼が挙げる理由は他の研修医の意見より正直だし、示唆に富むものだ。つまり、地域医療をやるのであれば多くの選択肢のあるフィールドの中で自分にとって一番有利なものを選べばよいのであって、ここである理由はない、ということ。うーん、そりゃ、そうだよね〜。自分で選べそうな気がするよね、普通。
その後、人生の話になったり、専門性の話になったり、はたまた結婚の話になったりと酒の肴に話しはどんどん代わってゆくのだけれど、君と話しをしていてわかったことがある。僕の現在は僕が意図したものではまるでなかったということ。ある事態に対応したその後の有り様からみて、その事態とその後をつなぐ物語をこしらえつつ歩んできたのだなあ、という感慨にちょっと驚きました。ちょうど夢の生成過程と鏡面関係になったようなものだ。僕が果たして最初から六ヶ所村で地域医療や家庭医療を目指してきたなんていうのは僕を納得させる物語の1つなのであって、そんな事実はなかったのかもしれないと思うくらいだよ。
大事なのはまずはその事態に対応することであって、理想をつくってから動くというのは現実的ではないのかもしれないよ。なかなか結婚しない人にもよくあるけれど、結婚してから結婚の意味がわかったりするもんなんだ。そこで、提案なんだけれど、とりあえず六ヶ所村で働いてみて、それから考えてみる、というのはどうだろう?恐山も近くにあることだし。だめ?
2010年2月26日金曜日
2010年2月22日月曜日
no kidding
ふざけんな、という日本語の勢いに自分でも驚いて、no kidding!でお茶を濁す。いろんな意味で情けない。その当の現場では、なにやらもやもやとしていて、その場で反論もできなかったのでしたが、家に帰る途中、そして帰ってから、そのもやもやの理由が分かって怒りの感情に置き換わっていました。
ちょっとパブリックな会議の内容なので、詳細を書くことはできないのですが、要するに、へき地医療は誰もやりたくないのだということが、言葉や方向を変えて確認されたのでした。へき地医療は誰もやりたくないのだから自治医大卒業生がそれをやるのは当然の義務である(うん、その通り)。自治医大生がそれを終生やる義務などないのだから早く専門を持ちなさい(現実的にはその通り)。確かに後輩たちの多くはこのようにして昔の僕らとは違う形のキャリアを持つことになるし、それはどうも避けられないことであると、最近は納得もしているのだけれど、なにか大事なことが大きく損なわれているのだ。
へき地に住む人たち、そこで生涯を終える人たち、そのそれぞれの具体的で個別の人生の困難さへの共感がこれらの議論には欠けているでしょ?いわゆる技術者や科学者としての医師とその人生から発想される議論の展開に僕はきっと回転性のめまいを感じていたのだった。30年たっても結局変わらない。地域医療の専門医を、情熱をもって自ら進んで地域医療を実践し研究する新たな医師たちをつくることの必要性をなんど繰りかえして話したことだったろう。
それにしても、Dr.F。先日地域医療という言葉の持つ危うさに関して議論したのだったけれど(articulationを参照)、地域医療の専門医というものが、その真性の意味が、損なわれて行くのをみるのはとても嫌なものです。それでも、まだもう少し頑張ろうと思えるのは、いまはばらばらになった仲間たちが、きっと、それぞれの場で持ちこたえようとしているのが分かっているからなんだろうね。いや、これは冗談ではなくて。
2010年2月14日日曜日
public health and clinician
F君は臨床医としての予防活動に興味があるということだから、現実の問題点とこれからの展望を少し話してみるね。僕らが準拠するところの家庭医療では、外来における一人一人の患者さんとの出会いの中で一般的な予防活動を組み入れるのが基本となっていて、例えば、禁煙・節酒や運動のことや、有用だと思われる健診のことを話すということなのだけれど、ある程度は実行できていると思うよ。ただしきちんとした予防活動のレジュメを使っているわけでもないので、あんまりシステマチックとも言えないけれど。この辺は改善の余地があるし、実際改善できそうだね。
悩ましいのはcommunity oriented primary care(COPC)を考える時なんだ。これは公衆衛生的な視点を導入した地域全体への働きかけを意味するもので、地域医療を行う上では避けて通れないテーマだし、実際に重要なものだと思っているのだけれど、実行はとても難しい。第一にこのような公衆衛生的なテーマは、減塩や肥満解消や自殺対策だったりするのだけれど、保健師さんと保健所の活動領域そのものだから、指揮系統の違いが大きな壁になっているんだよ。臨床医が無視されているわけでは決してないんだけれど、国・県・管轄の保健所そして自治体の保健師さんというラインがとても強固なので、どうしたって保健所経由でものを考えるのが普通だからさ。でも、保健所の所長さんとうまく話合いができればbreakthroughがあるかもしれないとは思うんだ。
第二点は、ひょっとして、これは納得できないかもしれないことなのだけれど、臨床医の本来の姿勢にぶれをもたらす危険性があることなんだよ。臨床医は患者さんそのものを、その人として理解しようとするものだ、と以前話したよね。ところが公衆衛生的なものを考え始めると、自動的に個人をはなれて抽象的な例数(N)の視点が導入されてしまうんだ。記述的な統計をとるときにはそうなるでしょ?ある計画をたてて結果を評価するときにも、数としてカウントしてしまうしね。意識しない人は気にならないことだけれど、僕らはPCMを基本としているのでちょっと違和感があるんだ。これを解消するための方法がないわけでもなくて、研究するのであれば或いはデータをとるのであれば、一時的に臨床から離れた方が良いということになると思うよ。それにしても予防活動は本当に大切だ。それで、どうだろ。ここで一緒にやらない?
2010年2月8日月曜日
generalist's lullaby
関東の医学部から地域医療の研修に来てくれたある5年生との会話から。(地域医療に興味がある、とかわいらしくも言ってくれた彼に。)地域医療の専門或いは家庭医療、プライマリケア医、なんでも同じことなのだけれど、敢えてそれを専門ということに戸惑いがあったし、実際、一般の医師からみて地域医療で提供される医療内容そのものは地域医療に特有のものとは思えないものだったんだ。そう、全部各科の基本技術の寄せ集めだよ。僕自身もうんと長い間誤解していたのだけれど、generalistいう種族にはある端的な特徴があって、それこそがその専門性を保証する出発点なのだけれど、つまり、ものごとが患者さんから始まっているんだ。目の前に現れる患者さんたちが語るお話(病の物語といっても良いのだけれど)に対応することから全てが始まるのであって、自分ができることを提供するという一般の医師たちとは方向が逆転しているのさ。そしてバリエーション豊かな患者さんのお話に対応するのに必要なのは専一で高度な技術や知識(それは自由度の少ないものだ)ではなくて、物語を読み込む能力であったり、基本的な技術の無限の組み合わせであったり、流用であったり、時にはなにもしないこであったりするんだ。免疫応答のようだろ?多様のものには、単純なものの多様な組み合わせで対応するというのはとても現実的でもあるんだ。あるいは野生の思考とよばれるものだけれど、キミがこれを十分に論理的だと思えれば、キミはgeneralistだと言えるんだよ。
訳わかんない?そりゃ、そうだよね。いつかまた僕の話を聞きに遊びにおいでよ。僕はずっとここにいるから。こんなお話をずっとしているから。
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