2010年1月31日日曜日

clinician×clinician

 先日、H大学医学部4年生の学生さんに地域医療の経験からお話をさせてもらう機会をいただきました。春から初めて病棟実習が始まるこの時期に集中して行われるレクチャーシリーズの1つとして僕が行った講義のタイトルは”初めて医療者の一人として現場に出るキミへー地域医療からの提言ー”というものです。K教授から承ったこのタイトル。うーん、かっこいい。へき地での経験談をベースにして、それを方法として認識していった自分の歴史をお話しながら、最終的にPCM(patient centered method)に至ったというものです。病態生理の時間割の間のあるエアポケットのような授業だったと思います。学生さんご苦労様。しかし、自分を語るようなこの授業に恥ずかしさを感じてもいましたし、あらためて医師とはなんなのかと考えるような時間でもありました。ましてその後の夕食会で5年生のM君とYさんにこの1年の経験を伺っていると、臨床の医師であることの不思議さをますます感じるようでした。
 臨床医とはなにをする者か。Googleのキーワード検索で大方の診断ができてしまうこの時代、ましてガイドラインに準拠した治療をするのであれば、臨床医の仕事はそこにはない。ではどこに?診断は、普通言語の世界の物語を医学の言葉に翻訳しmedical worldの物語(解剖×病理)に変換すること。そして治療はmedical worldの力を普通言語のリアルな世界の力へ翻訳・変換するということ。つまり翻訳者として、臨床医は両方の世界の間にあるのだ。通訳者としての臨床医。そして通訳者の評価が、正確な翻訳が命であるにしても、翻訳されない或いは翻訳できないその行間への身の入れ方や身振りでなされるように、臨床医の評価もなされるだろう。ある世界の間に身を置くということはその当の本人の中にも世界が2つできあがること。ゆれる、とまどう、覚悟する。この不思議な境界が臨床医の住み処なのだということにみんな気づいているだろうか。危険な、けれども魅惑的な世界だ。気づかなければ幸いである。彼は畏れないだろうから。気づいた者は幸いである。彼は不思議な世界をみるだろうから。M君、Yさん、ずっと見ているからね。(変な意味じゃ、ないからね)
 

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