2008年12月29日月曜日

自治医科大学の秘密ー伝統の在処

 新年あけましておめでとうございます。今年も自分勝手な文面が続くのですが、新年早々、昨年の続編を少々ー今度は自治医大の秘密。時期が少しずれてしまいましたが、自治医科大学の学生さんたちとの定例忘年会のこと。卒業生は仕事をやり繰りできる人が12名、そして学生は6年生を除く10名ほどが参加します。今回はご家族連れの卒業生も2組。自分の息子ほどの年齢の学生さんたちや若手の研修医を交えた忘年会はおよそ2時間の勉強会付きで始まります。今回は派遣施設の紹介でした。どの施設も自分たちが実際に派遣される可能性のある施設ですから、勢いまなざしは真剣です、うんうん、なかなか皆なかわいいぞ。その後は酒宴が3時間あり、各自温泉に入りながらも2次会が終わったのは午前3時でした。説教される人、馬鹿話の人たち、将来を語る人など、先輩たちもまんざらでもなさそうな一夜でありました。
 思えば自分が学生の頃から綿々と続くこの忘年会こそ、ある意味、伝統を伝える夢の在処かもしれません。先輩たちの白熱した議論(まあ、昔は喧嘩でしたね〜)、学生さんたちのちょっと恥ずかしい芸の発表(かつては先輩のご家族の前でも発表したのでした)、若手がそちらで症例の話や悩みを打ち明けていたり、医師の生き様や地域医療の方法を話したり。
 自治医科大学の本体ではなく、その末端と言われる県人会での交流の中にこそ、計らずも新たな独特の文化がつくられていたようなのです。ブラジルという環境と文化の中でサッカー選手が多く輩出するように、この忘年会の中で地域医療の戦士たちが育成されていたのでした(半ば妄想)。地域医療を語る文化を形成すること。その中で生まれてくることー地域医療を行う医師を育てるための重要な方法論ですね。

2008年12月18日木曜日

自治医科大学の冒険その4(一応最終回・・ ふ〜)

 目覚めた人たちの顛末を、まだ20歳代の僕は複雑な思いでみていました。彼らが去った後の医療センターはなにごともなかったように運営され、義務年限を終了した卒業生たちが田舎で習得できなかった各科専門技術の修練に集まってもいました。自治医科大学の本営は、自分たちの慣れ親しんだ従来の価値観に照らし合わせて、多分それをよしとしたのでしたが、画期的な事業の立ち上げの機会を永久に失ったように思います。大学での一般的な医学学習・卒業生との交流→地元での臨床研修→へき地診療の実践→大学・センターでの各科研修バックアップ→専門家としてのキャリア。ついに円環構造は完成しました。大学人の価値観は守られ、総合医という言葉はへき地で必要な各科技術の習得と実践という同じ地平に置かれることになりました。彼ら目覚めた人たちは、その地平から空に向かって立ち上がった人たちだったのでしたが。彼らはなおも総合医療や家庭医療の尖端で、その価値観を示し続けています。まるで伝説の巨人のように。
 ところで、このへき地医療を担う総合医養成の円環構造は実にシンプルです。教える側は変わる必要がないのですから、自治医大でなくとも地元の大学で行う方が効率的でさえあります。各大学で地域枠の医師が多数輩出するだろう現在、自治医大が恐れるのは当然でしょう。内容は真似易し。姿は真似難し。このことの重要性を引き受ける覚悟があるかどうかが自治医科大学のこれからを占う試金石だと個人的に思っています。さて、これから、どのような冒険が待っているでしょう。第二幕はすでに上がっていますね。

2008年12月11日木曜日

自治医科大学の冒険その3

 総合医は卒業生たちがへき地を中心にして活動し、その現実と対応していた内容をまとめた中から作られた言葉でした。優秀な先輩たちは自分たちの足跡を眺めて気づいたはずです。これは家庭医や一般医と呼ばれる海外の臨床医と同じものであると。そしてその違いにも思いいたっていたと聞いています。英国の一般医のように国家公務員としての活動とは違う、かと言って米国のような完全に開業ベースではない。その中間的な存在を意識した言葉ー”総合医”ーが誕生しました。そして足跡という内容そのものではなく、そのステップの踏み方、つまりスタイルと価値観にふるえるような感動を持った一部の人たちが生まれることになります。彼らは大学にもどり、その経緯と顛末を学長たちに話し(多分)、言葉の定義をつくり、総合医の教育と認定のための医療センターを作り上げるに至ります。それは第1期の卒業生たちが世に出てからおよそ10年目のことでした。
 しかしながら、分裂の種はすでに蒔かれていたはずです。内容はまねやすく、姿はまねがたし。前者(内容)を見る人たちは、まるで専門医たちのおこぼれのようだと感じたでしょう。それらは総体としてみれば地域に必要な医療機能の提供を意味していたのですが、従来の臓器を基盤とした医師の評価の対象にはなりえませんでした。単に義務年限内に果たすべき項目ととらえたでしょう。しかし後者(姿)に新しい医師像を見た者にはまるで宝物を見つけたように感じられたでしょう。作り上げ広げて行くべき新たな分野であり、卒業生にこそ与えられるべき専門性と感じたことでしょう。彼らは最初に目覚めた人たちでした。
 医療センターが開設されてから数年後、その中心にいたはずの目覚めた人たちはことごとく夢の城を去ることになりました。以上、僕が知っている伝聞を含めた物語の再構成でした。彼らはどこに行ったのか?自治医科大学の冒険はさらに続いてしまって、いいのかなあ・・・

2008年12月2日火曜日

自治医科大学の冒険その2

 前回からの続き。どうなることかとの心配をよそに、自治医科大学の卒業生たちへの評価は予想以上に高かったのでした。もちろん需要と供給の関係があり、経験は浅いけれども、とにかく一所懸命に医療を提供しようとする若者たちを評価してくれたということなのでしょう。特に一番最初に赴任した人たちの仕事ぶりは知識・技術もさることながら、へき地で体験された数々の物語は非常に感動的であり、『いま、へき地医療は』という本の中で長く語られることになります。ほっとするのと同時に、大学の人たちは自らの教育に自信を得たのではなかったでしょうか。学校では基本的な医学を教える。地元の医師に多科研修をお願いする。へき地に出向けば、それなりに貢献できてしまう。いいんじゃない!ほーらね。
 やがて卒業生たちは、自分たちに”総合医”という名前をつけるようになる。自分たちで自分たちに名前をつけるということの意味。親の知らない名前。そしてこの名前、この新しい言葉が、次の冒険或いは混乱への契機になるとは誰も知らないのでしたが、今となってはそれは1つの運命だったということになりますね。さらにつづく、かな?