総合医は卒業生たちがへき地を中心にして活動し、その現実と対応していた内容をまとめた中から作られた言葉でした。優秀な先輩たちは自分たちの足跡を眺めて気づいたはずです。これは家庭医や一般医と呼ばれる海外の臨床医と同じものであると。そしてその違いにも思いいたっていたと聞いています。英国の一般医のように国家公務員としての活動とは違う、かと言って米国のような完全に開業ベースではない。その中間的な存在を意識した言葉ー”総合医”ーが誕生しました。そして足跡という内容そのものではなく、そのステップの踏み方、つまりスタイルと価値観にふるえるような感動を持った一部の人たちが生まれることになります。彼らは大学にもどり、その経緯と顛末を学長たちに話し(多分)、言葉の定義をつくり、総合医の教育と認定のための医療センターを作り上げるに至ります。それは第1期の卒業生たちが世に出てからおよそ10年目のことでした。
しかしながら、分裂の種はすでに蒔かれていたはずです。内容はまねやすく、姿はまねがたし。前者(内容)を見る人たちは、まるで専門医たちのおこぼれのようだと感じたでしょう。それらは総体としてみれば地域に必要な医療機能の提供を意味していたのですが、従来の臓器を基盤とした医師の評価の対象にはなりえませんでした。単に義務年限内に果たすべき項目ととらえたでしょう。しかし後者(姿)に新しい医師像を見た者にはまるで宝物を見つけたように感じられたでしょう。作り上げ広げて行くべき新たな分野であり、卒業生にこそ与えられるべき専門性と感じたことでしょう。彼らは最初に目覚めた人たちでした。
医療センターが開設されてから数年後、その中心にいたはずの目覚めた人たちはことごとく夢の城を去ることになりました。以上、僕が知っている伝聞を含めた物語の再構成でした。彼らはどこに行ったのか?自治医科大学の冒険はさらに続いてしまって、いいのかなあ・・・