2009年6月3日水曜日

Dr.F, Dear Dr.F

 どんなことがあってもその道を歩む人たちがいる。もちろん結局のところ、好きでやっているということになるのだけど、どうしてそこまでするのかと不思議な胸騒ぎがしてしまう。使命感、それは大きなの要因の1つだろうと思う。僕がやらなければならない。歯を食いしばり、天を仰いでそうつぶやくシーンが目に浮かぶ。雨が降れば傘もささず、雪の中ではコートもなく。そりゃ、倒れるよ。だけれども、僕の知っているその人は、僕の敬愛する後輩なのだけれど、なんだか少し様子が違っている。信念が固いのは折り紙付きであるにしても、なんだか楽しげな雰囲気がただよっている。周りの人からのほほえみに感応するようにほほえんでいる。混乱の中にあって、新たな胎動に心を通わせている。うーん、すごい。
 ところで、そんな彼に僕自身が反応し、勇気づけられ、また歩きはじめるなんてことが、遠い昔には思いもよらなかった。だって、後輩だよ。本当はぼくが元気づけなきゃならないはずの。しかし、遙か彼方に輝く星からみれば、それは僕らに多分共通したあこがれのメタファーでもあるけれど、多少の年齢差は無視できるくらい小さなものではありますね。Dear Dr.F 貴方がいてくれてよかった。
 

2009年5月24日日曜日

mind as narrative , starlight of the future

 先日臨床心理学のM先生に自分たちの診察の様子を見ていただきました。ちなみに臨床心理士さんたちは、大抵精神病院の中にいて心理テストや心理療法をしていますから、プライマリ・ケアの現場で一緒になにかをするなんてことは普通ありません。以前からPCM(patient-centered method;患者中心の医療の方法)には心理的なアプローチが不可欠だろうと考えていましたので、面識を得たのをきっかけに今回の試みをお願いしたのでした。
 それはもう驚きのレビューでした。いままで2次元平面でみていたものが、まるでいきなり3次元になり、しかも色つきになったような感覚でした。これこれ!絶対これが必要なんだって!心理面の動きを家族とその社会のコンテクストで読み取ろうとする動き、当然それは物語として把握されているのですが、さらに近未来の物語を想定したアプローチが連動します。そう、こういうことをやりたかったんだって!PCMに物語が重要だと自分で言っていたにもかかわらずうまくできていなかったのは、思うに、本人・家族と社会の物語の多様性に対する経験不足というか認識不足(知識不足も)というあたりが原因なのではなかったか、と。
 物語としてとらえることは、心であるところの彼をよりリアルにとらえることになるでしょう。物語は本来的に未来を語るためになされるという話も伺いました、そうだったんだ。

2009年5月22日金曜日

the reason why

 H大学医学生のI君との会話ー理由のある診療をするということは、とても大切なことなのだけれど、多分誤解することも多いこの言い方は少し説明が必要だと思うよ。もうすでにevidenceのことを考えたり、強固な医師の信念を思い描いたりしているでしょ?臨床的には、根拠(evidence)のあることと、それを実施する理由との間には相当大きな、そして決定的な隔たりがあるんだ。PCMではダンスとして例える当のものだし、構造構成主義的には信念対立に深く関係しているものだよ。
 頭痛の人が頭部CT検査を希望しているとして、僕らが科学的と言っている医学推論においては検査が不要だと考えるのは根拠のあることだと思うよね。そしてある医師は検査をしない。一方ある医師は検査をするんだ。それぞれの医師はそれぞれの理由で、検査をやったりやらなかったりするのだけれど、この最後の決断を決定づけるものはなんだい?医師と患者さんとの関係性の中にしか答えはないはずなんだ。患者さんのせいにしてはいけない。evidenceのせいにしてもいけない。その決定は、つまるところあなたがしているのだから、むしろあなたに理由があるのだ。あなたの価値観や人格や、感情や経験がそのままあらわれているところの理由ある診療ということだよ。すべてがキミ自身を表しているということなのだから、心しておこうね。(僕もね・・・)

2009年5月12日火曜日

coming soon is never coming

 かつて見た紙芝居やさんのおじさんは、”またすぐ来るからね”と、僕ら子供たちに確かに話したはずだった。いつまで経っても現れないおじさんを、小銭を握って2−3年も待っただろうか、いつしか忘れてしまったいた。それが深浦町のこと。その後、弘前という街に移り住んだ僕は、なんということか、再びそこの街角で、同じ紙芝居のおじさんに会ったような気がして、嬉しいやら、悔しいやら、大いにおじさんを責めたいと思ったのだけれど、またしてもおじさんは姿を消してしまったのだった。ひょっとしたら空想好きの子供の夢だったのかもと疑ったりするけれど。
 ”また来ますから”、と多くの研修医さんたちが言ってくれるけれど、僕はね、あの紙芝居のおじさんのことで分かってしまっているんだ。そんなの当たり前じゃないか。それなのに、不思議なことに、それでも、いつか本当に会えるかもと、春の宵には信じていたりするのだけれど。うーん、ちょっと疲れているかな。
 

2009年4月25日土曜日

return of the network divers

 地域医療の研修に3ヶ月も来てくれていたK君と医師になりたてのTさんとのディスカッションからー研修全体を通したレビューの中で、どうも尾駮診療所では地域医療と言いながら、いわゆる保健活動や地域活動がないのではないかという従来からの批判があるし、実際K君もそのような活動が少なかったと思っているよね。研修期間中に話してきたのは、PCM(patient-centered method)の意味とそれに連動する地域アプローチのことだったのだけれど、今日は良い機会だからPCM×地域アプローチから見える地域活動の真意と来るべき未来の医師について話しておこう。
 地域活動のある表現が、保健活動の立案や地域ケア会議の主催や或いは地域興しだとするのは間違っていない。けれども、これらがないからといって、医師が地域活動と全く没交渉ということにはならないんだ。順番に話していこう。まず地域の活動とは、そこに関与する人たちがある目的を持って動くということだね。そして人が動くのは実は心が動くということ(目をつぶってみればすぐ分かることだけれど)。さらに心を動かすのは自分以外の誰かの心との共鳴だというのは自明ではないか?そしてこのような共鳴する心の繋がりはその関係する人の数だけ増えていって、ちょうどネットワーク状のシートを形成することになるのだよ。これに医師自身が含まれていると自覚するとなにが起こると思う?地域が自分を含めた人と人とのネットワークで形成されており、医師としての自分の動きや対応で、それが揺らぎ、或いは反動がもたらされ、形状を変えて行くのが想像されるでしょ。例えば介護職の方を一方的に非難したとたん、その人から波及した感情がネットワークを揺らして、場合によっては福祉の連携がぎこちないものになることだってあるんだ。
 さて、K君。この3ヶ月できみが関与した地域でのネットワークを考えてみて下さい。キミの言葉で形状を変える目にはみえないネットワークが確実にあることに気づくでしょう。それが僕の思う地域活動の真意だし、そのネットワークを意識して、それに飛び込み関与しつつ医療活動ができる医師が未来形だと思っているんだよ。network diverって名付けているんだ。僕?いや、まだまだビギナーだよ。まだ未来は僕には訪れていないよ。

2009年4月14日火曜日

dance, dance, dance

 患者中心の医療の方法(PCM;patient-centered  method)を説明するのによく使うメタファーがある。今週来てくれたK病院の研修医のAさんにも用いたそれをdanceの暗喩と個人的に呼んでいます。ある時は野球に例えたり、またある時はジャズ演奏に例えたりと、話す人の興味に関連して変えていましたが、このdanceというのが最もわかりやすいのではないかと思っておるわけです、おっほん。誰?・・・
 もっぱら社交ダンスを想像してみたまえ。ダンスを知らないご婦人と手を取り合って彼女とともに形成するであろう演舞の困難さもまた。合一するベクトルをいかに優雅なものにできるかは、畢竟コミュニケーションにその鍵があるものと思い給え。相手をただ押してはならない。壁にぶつけて傷つけるのが落ちだ。だた押されてもならない。永劫の退却があるだけだ。我々は円を描いて回る必要があるのだ。そしてその力強い演舞を保証するのが足腰の強さであるように、疾患ベースの知識や技術が高度でなくてはならないことも忘れてはならない。
 それでね、Aさん、その足腰を鍛えるのが毎日3〜4時間に及ぶこの検討会というわけなのさ。だから、もうちょっとつきあってね。danceでgo!ってゆうでしょ?言わないか。

2009年4月7日火曜日

a dragonfly in the sky

 一般的な大学の講義ではね、いまにして思えば、標本箱の中にあるトンボの勉強をしていたような気がするんだ。大きさや関節の構造、色彩や柄、羽と体部の比率、眼球の構造などを(多分)勉強したことになるのだけれど、飛んでいるトンボにはどうしても到達できないよね。そもそも天空を滑走するあの自由なトンボをそのものとして観察する方法さえ、僕らは獲得しているとも思えないしね。その流儀で行くと、総合病院や大学病院ではトンボの方から飛び込んで来るのを待っていれば良いのだけれど、地域というフィールドでは全然そんなことはなくて、近づけないことさえあるくらいだよ。さらに調子に乗って言えば、トンボが生きるための生態系だって、僕らGPにはとても重要な関心事だってことになる。あの池を美しくありつづけるための方策、或いは害をなす虫たちが発生しないようにすることだって無関係ではいられないのだ。同時に自分がその自然体系の一部であるということも避けられないでしょ。GP面白いよね!(H大学の学生さんとのお話で使ったトンボの標本の話から)