言葉をほとんど理解できず話せもしないはずの重度の発達障害の方がたまに発する言葉が、”ぽっぽっぽ”ともう一つ演歌のワンフレーズだった。50歳代のその方の母はもう亡くなっているのだというが、その母が彼に歌い語りかけただろう言葉だけが、意味を理解されないままのその人の記憶に残り、時に再生される。彼は母を思うのだろうか。母はなにを思っていただろうか。知らぬ間に、その人を自分の息子に置き換え、その母を自分の妻に置き換えてみている。彼は口元に締まりがなく、いつも涎が滴っている。僕は彼にほほえみかけている。
2010年9月27日月曜日
tears in the heaven
村のほぼ中央、ただし部落と部落の間にある人家の少ない場所で、すこし山側に入ったところに授産施設と言われる発達障害の方たちの施設がある。義務教育後の10代後半から60歳代まで人たち50人くらいがそこで生活している。月に一度診察に行く。ほとんど施設のスタッフと変わらない雰囲気で働いている人から全く言葉を解さない人までかなり認知機能には差がある。自閉症やてんかんの合併症も多く、時には思いがけない行動をすることもある。
2010年9月21日火曜日
on community medicine forum
先日自治医大の卒業生が中心になって地域医療フォーラムという集まりがありました。今回が3回目のこの会合には約350名の人が集まり、地域医療についてワークショップを行ったのでした。主催は自治医大、自治医大同窓会、そして地域医療振興協会。テーマは3つ。1)地域医療再生 2)高度医療機関における総合医 3)地域枠学生との関連 1時間半くらいの討議と各分科会からの発表がありました。それはそれで時間もお金もかけているのだし、ありきたりとは言え、みんなまじめに討議もしたのであって、文句をいう筋合いもありません。あー、それにしても東京は暑かった。
自治医大の中ではいったいなにがどのように問題になっているものだろうか。各県の卒業生は自治医大が今この瞬間になくなったとしてもあまり大きなダメージはなく、地域の医療に邁進するのだろうけれど、大学の教授たちはどうしたものなのだろうか?多分、各大学にそれなりにちらばってキャリアを続けているのだろうけれど、地域医療にはなんら支障はないように思う。彼らは地域医療を直接に思い煩うこともなかったのだろうし。だって、traditionalな教授たちなんだもの、仕様がないではないか。地域枠があろうがなあろうが、彼らには興味なんてあるはずがない。研究が全てなんだから。
僕はこのようなひどい想像をするほど大学を愛しているのだろうと感じるけれど、これはなんだか妄想の類かもしれない。あ〜命捨つるほどの、母校はありや。普通、ないか・・・
2010年9月16日木曜日
new curriculum-2
僕が望むカリキュラムは総合医の現場に即したとても現実的な履修項目の提示から始まることになる。時間、空間そして形式或いは方法論という大枠をまず示すこと。
Ⅰ 時間
Ⅰ−1.emergent Ⅰ−2. acute Ⅰ−3.chronic Ⅰ−4. life
Ⅱ 場所
Ⅱ−1. surgery Ⅱ−2. hospital Ⅱ−3. home Ⅱ−4.community
Ⅲ 方法
Ⅲ−1.communication Ⅲ−2. diagnosis Ⅲ−3. intervention Ⅲ−4. PCM
これらは例えば、急性の状態×診療所設定×診断・治療という状況が考えられるということを表現できる。次にそれぞれの履修すべき下位項目が続く。
Ⅰ−1 emergent
①consciousness disturbance ②shock ③dyspnea ④chest pain ⑤trauma
Ⅰ−2 acute
①pain ②fever③anxiety④organ specific symptom⑤・・・(未定)
Ⅰ−3 chronic
①knowledge of chronic disease ② behavior change
つまり時間の切迫状況に応じて対応するべき症候を中心にした分類を基本にするということ。例えばacuteでpain,feverという項目がありますが、これらは臓器にとらわれない考え方が必要であるという意味で総合或いはgeneralらしい視点を提示していると思います。地域の現場では痛みや発熱で受診することが非常に多いのですが、痛みに関して言えば、領域にこだわらずに痛みをとらえ解析することで不確定な状況に対応しやすくなります。またemergentの状況では、意識レベルの判断・対応、バイタルサインを常に意識しながら行う医療行為、心臓血管系への配慮、そして外傷対応は必須であって、実際の救急室の動きをなぞらえたものになっています。慢性疾患では各疾患別のコントロール状況と検査ならびに行動変容が大きなテーマになっていますのでこのように分類しました。最後のlifeという項目はlife eventを含んだ生活に関連したものの見方とアプローチを学習するものです。
これらに続いて、さらに具体的な臨床に即した学習項目をお示ししたいと思いますが、え〜、さらに続く・・・かなあ(実はまだ思案中)。
2010年9月15日水曜日
new curriculum−1
医師会雑誌に生涯教育新カリキュラム〈2009〉が掲載されていた。医師会主導の総合医認定のためのカリキュラムで、福井次矢先生をはじめ医学界ではつとに有名なメンバーが数年をかけて制作したものだという。地域医療の崩壊への有力な解決策として出されたのが”総合医”であったはずのカリキュラムは、なんと実行される前に医師会の新人事とともにまるで骨抜きにされたのだった。生涯教育受講認定書が欲しい医師会所属の専門医の便を図ったのだそうだけれど、広い範囲の内容を取得することが前提のこの仕組みが、好きな科目を決められた時間受講するだけでよいという以前の形に戻ってしまっている。地域住民のための計画が、医師の便宜でご破算にされる。カリキュラム制作に尽力された方々の深いため息を思って、こちらも深いため息が出てしまう。professionalismが泣く。30年前も、20年前もすべて総合を目指した研修カリキュラムは医師の都合で不発に終わった。世間は失敗の事実さえ知らなかった。それでも現在希望があるとすれば、地域医療の崩壊を目の当たりにした世間が、以前よりも医師の研修やその考え方に注目しているということだ。社会の要請と無関係なprofessionとはそもそも語義的にみてもありえないのだし。ばかやろー(と、海に)。
医師会の新カリキュラム自体は、さすがに、洗練されていて美しいと思う。作成された方々の情熱や優秀さがよくわかる。ただ、本当に僭越と思うのですが、地域医療の現場から言えば、少し物足りないとも感じます。僕が欲しいのは・・・次回に続く。
2010年9月13日月曜日
communication dive
季節がようやく秋らしくなったせいか、少しいつもの感じをとりもどしている。渡英の話、或いは若い同僚たちの結婚話もあり、息子の進学や就職のこともあり、今週末は東京出張もあって、やっぱり落ち着かないのはいつものことだけれど・・・そうそう少しいつもの感じ。外来の会話の中に沈潜してゆくときの妙な感覚のこと。最近は、相手の視線のベクトルの中に、自分の視線を飛び込ませて、自分の表情を相手側から想像するという変な作業をしている自分に気づいて驚く。彼の表情の微妙なゆらめきに、自分の表情が同期する、或いはその逆、さらにまたその逆。まるで自分の顔を鏡で見ている時のようにいたたまれなくなってきて、すぐに視線を下方5度ほどそらせては、ではまたいつものお薬を、なんて言っている。なにをやっているんだか・・・コミュニケーションの起源を追体験しているような気もするけれど、なんだか触れてはいけないものに触れているような気もする。或いはこんなことはあんまり普通すぎて、みんな感じないのだろうか。コミュニケーションは考えるほどに難しい。意識する人ほど、難しいのだろう。意識せずにするコミュニケーション、これはまた相当に困難だろうし、そんなのそもそも必要とも思われない。
外来診療の不思議さや奥深さや恐さを感じつつ、それでもcommunication diveするのだ。そこは多分、家庭医・一般医の住み処だからね。うーん、自分の首をしめている気がする・・
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