2009年6月26日金曜日

star wars episode 3, synchronized with personal career

 前回はガンダムで今回はstar wars。なにかに例えると伝わりやすいかな、と考えているのでしたが、個人的な経験を語ることの伝わりにくさを乗り越えるために人はよく共通の物語を用いる、と言い換えるとちょっとは高尚な感じになりますね。ユングや村上春樹なんかも・・・
 さて、star warsは全部で6つのエピソードで成り立っています。最初の公開はエピソード4でした。思春期にある主人公skywalkerが敵に襲われジェダイへの道のりが始まるのでした。悪のダースベーダー、可憐なレイヤ姫。当初宇宙を舞台にしたSF戦争くらいにしか思っていなかったのですが、そのSF技術や奇抜な宇宙人との戦いに興奮していました。そして最後のエピソード3.ダースベーダーが主人公の父であり、もとは正義のジェダイであり、愛する妻を救うために、はからずも悪の化身に身を落とすことになったことが判明します。円環構造は閉じ、10年以上を費やして完成した映画が幕を閉じました。うーん、よかった。いままでみたいろいろなシーンの意味がはじめて理解され、すべてが繋がった感覚でした。
 自分の経歴の中で、そんな感覚を最近感じるようになりました。地域医療の研修にここまで来てくれる若い学生や医師にPCM(patient-centered method;患者中心の医療の方法)と地域アプローチを語る中で、およそ25年前、医師3年目の自分が、津軽半島の小さな村の一人診療所で過ごしたあの日々の一々の意味をようやく理解した感じになるのです。物語が全貌をその物語を過ごしてきた当の本人に語りかけるという二重構造。さらにそれを若い人に語りかけるという事態を、25年前の僕には想像すらできなかったなあ。若い方たち、聴いてくれてありがとう。ちなみに女房にもよく言われます、”研修医の人たちに聴いてもらってありがたいと思いなさいよ。”って。全てお見通しってわけです。

2009年6月17日水曜日

human souls, attracted by the gravity of the earth

 ガンダムを知るあたなにはこの台詞に未来(;とき、と発音)の涙が見えるかもしれない。この英訳がその真意を伝えらかどうかはきわどいところだけれど、地域医療に青春をかけてしまう或いはかけてしまったあなたにちょっとだけ語りたいと思います。今日お昼休みに”総合医の”由来を学生のS君たちに説明していて頭に浮かんだシャー・アズナブルの台詞だったのですが。
 そもそも”総合医”という言葉は自治医大の卒業生たちが、その実践と経験に自らが与えた名前であって、大学の教授たちは関係していないだろうこと(このブログ内”自治医科大学の冒険”を参照)。本大学のある県の卒業生は誰も地域医療学教室ー総合医養成の総本山らしいーに所属していないこと。地元に大学医学部があることろでは、おそらく専門医療の引力が強すぎて地域医療の真意や方法を考えるなんてことはないのだし、ましてや地域医療に青春をかけるなんてのはあり得ない話。そう、ここで重力が出てきます。地球の重力に魂を引き寄せられるものたちとspace colonyで生まれ育ったものたちの決定的な違いがこころにある。母なる地球の重力はそれはもう当たり前の大前提であって、存在も価値も全て負っているのである。なにが問題か?問題はない、この地球の上では。しかし地球の重力を逸脱したところに生まれる新しい魂の象徴としてnew typeとガンダムシリーズで呼んでいたものに僕らは共感する。たんにspace colony生まれではない、革新としてあるものであり、同時に本来の姿を表すもの。うーん、かっこよすぎるシャーの真似は結構プレッシャーがあるけれども、ああ、また自分の首をしめているようだけれど、敢えて言えばそんな地域医療の専門医を目指しています。
・・・つまりね、S君、総合医というのは本当はspace colony生まれの人たちを言うのであって、地球人には十分には理解されないと思うよ。ましてやnew typeはcrazyな圏外の人ということになるね。以上のことをすぐに理解できるあなたは、ちょっと変わった人だと思います。一緒に働きませんか?
 

2009年6月12日金曜日

how to be an ugly adult

僕は確かに”いやな大人にはなりたくない”と思っていたし、いまでもその感覚はあんまり変わっていないんだ。自分の主張も持たずに、ただただ周りにお追従をして、陰で悪口を言う。或いはまるでわかってもいないのに、歴戦の口八丁で自分を正当化しては悦に入ったり逆切れしてみたり、というタイプの大人たちのことなのだけれど、最近は全部が全部意味のない、唾棄すべきものだとも思わなくなった。周囲に合わせることは時にとても重要なことだし、自分の行動を正当化する論理を使えることもたまには必要だものね。いずれも社会的にあるためには大事なことだと思う。誠実さが担保されれば、という厳しい大原則があるにしてもね。それにしても影の悪口や卑怯な手口や過度の自己陶酔は、いまでも十分な嫌悪感をいだかせるのだけれど。僕らが感じていたみにくさというのは物資的なものではなく、その心の現れ方、物欲しげなその感性こそだということだよね。そんなんじゃ生きていけないって?うん。でもそれは生活のこと?生きるという意味の問題は重要だよ。僕らはいつだって生死とともにある職業人だからね。だから、職業人として自分を律するというのは、生死や真善美という類の言葉を目指すものであるし、物欲しげな品性とは正反対な生き方になるはずなんだ。困難な道だけれど、きっとあの頃の僕らは十分理解してくれるはずだよ。大人げないかな。
ーわからないことがあるときに、医師はどのように患者さんに話すのか、という話題から。
 

2009年6月3日水曜日

Dr.F, Dear Dr.F

 どんなことがあってもその道を歩む人たちがいる。もちろん結局のところ、好きでやっているということになるのだけど、どうしてそこまでするのかと不思議な胸騒ぎがしてしまう。使命感、それは大きなの要因の1つだろうと思う。僕がやらなければならない。歯を食いしばり、天を仰いでそうつぶやくシーンが目に浮かぶ。雨が降れば傘もささず、雪の中ではコートもなく。そりゃ、倒れるよ。だけれども、僕の知っているその人は、僕の敬愛する後輩なのだけれど、なんだか少し様子が違っている。信念が固いのは折り紙付きであるにしても、なんだか楽しげな雰囲気がただよっている。周りの人からのほほえみに感応するようにほほえんでいる。混乱の中にあって、新たな胎動に心を通わせている。うーん、すごい。
 ところで、そんな彼に僕自身が反応し、勇気づけられ、また歩きはじめるなんてことが、遠い昔には思いもよらなかった。だって、後輩だよ。本当はぼくが元気づけなきゃならないはずの。しかし、遙か彼方に輝く星からみれば、それは僕らに多分共通したあこがれのメタファーでもあるけれど、多少の年齢差は無視できるくらい小さなものではありますね。Dear Dr.F 貴方がいてくれてよかった。