2010年10月20日水曜日

how to listen to English

 英語。いつもやっかいな英語、特に会話。話せないのも困るけど、まず、聞き取れないのだから絶望的だ。渡英を前にしてニンテンドーDSの『もっと英語漬け』を引っ張り出したり、英語の本を買ったりと、泥縄式の日々にあせりは募るばかりです。幸いになことに通訳までできてしまう有能な女医さんが支援して下さることになっているので、開き直っても良いのだけれど、せめて半分くらいは聞き取りたいものだ・・・中途半端は帰って危険か・・・それでも、礼儀として(?)少しは練習した方が良いと思う。ちなみに、米国式の方が聞きとりやすく感じるのはちょっと不思議だけれど、教材が大抵米国式の発音のものだからなあ。
 こんな日々の中で最近、ほんの少しだけ、コツのようなものを発見した!テンポを合わせること。いままでは聞き取るときに単語或いはフレーズを意味を固まりとして翻訳しながら聞いていたのですが、これでは時間差で相手の発言を追うことになるので、非常に苦しい。実際、すぐに追いつかなくなるし、意味のわからない単語が出てきた途端に会話終了となる。そこで、意味は追わないで、音だけをなぞる。その際、16ビートを頭の中で(しかも前頭部眉間のあたりで)刻むようにするのだ。おー、こうするとそのまま音が聞き取りやすくなり、しかも、うまくゆくと7割程度が理解できるではないか!なんだか同時通訳の気分だ。
 もっとも、滑舌の悪い人や声の小さい人、或いは全く未知の単語を使った会話状況では太刀打ちできません。またリズム感が悪そうなしゃべり方をする人も難しいようです。事の顛末はまた11月下旬に報告予定。・・・どうなることやら。

 
 
 
 

2010年9月27日月曜日

tears in the heaven

 村のほぼ中央、ただし部落と部落の間にある人家の少ない場所で、すこし山側に入ったところに授産施設と言われる発達障害の方たちの施設がある。義務教育後の10代後半から60歳代まで人たち50人くらいがそこで生活している。月に一度診察に行く。ほとんど施設のスタッフと変わらない雰囲気で働いている人から全く言葉を解さない人までかなり認知機能には差がある。自閉症やてんかんの合併症も多く、時には思いがけない行動をすることもある。
 言葉をほとんど理解できず話せもしないはずの重度の発達障害の方がたまに発する言葉が、”ぽっぽっぽ”ともう一つ演歌のワンフレーズだった。50歳代のその方の母はもう亡くなっているのだというが、その母が彼に歌い語りかけただろう言葉だけが、意味を理解されないままのその人の記憶に残り、時に再生される。彼は母を思うのだろうか。母はなにを思っていただろうか。知らぬ間に、その人を自分の息子に置き換え、その母を自分の妻に置き換えてみている。彼は口元に締まりがなく、いつも涎が滴っている。僕は彼にほほえみかけている。

2010年9月21日火曜日

on community medicine forum

 先日自治医大の卒業生が中心になって地域医療フォーラムという集まりがありました。今回が3回目のこの会合には約350名の人が集まり、地域医療についてワークショップを行ったのでした。主催は自治医大、自治医大同窓会、そして地域医療振興協会。テーマは3つ。1)地域医療再生 2)高度医療機関における総合医 3)地域枠学生との関連 1時間半くらいの討議と各分科会からの発表がありました。それはそれで時間もお金もかけているのだし、ありきたりとは言え、みんなまじめに討議もしたのであって、文句をいう筋合いもありません。あー、それにしても東京は暑かった。
 自治医大の中ではいったいなにがどのように問題になっているものだろうか。各県の卒業生は自治医大が今この瞬間になくなったとしてもあまり大きなダメージはなく、地域の医療に邁進するのだろうけれど、大学の教授たちはどうしたものなのだろうか?多分、各大学にそれなりにちらばってキャリアを続けているのだろうけれど、地域医療にはなんら支障はないように思う。彼らは地域医療を直接に思い煩うこともなかったのだろうし。だって、traditionalな教授たちなんだもの、仕様がないではないか。地域枠があろうがなあろうが、彼らには興味なんてあるはずがない。研究が全てなんだから。
 僕はこのようなひどい想像をするほど大学を愛しているのだろうと感じるけれど、これはなんだか妄想の類かもしれない。あ〜命捨つるほどの、母校はありや。普通、ないか・・・

2010年9月16日木曜日

new curriculum-2

 僕が望むカリキュラムは総合医の現場に即したとても現実的な履修項目の提示から始まることになる。時間、空間そして形式或いは方法論という大枠をまず示すこと。
Ⅰ  時間
Ⅰ−1.emergent Ⅰ−2. acute Ⅰ−3.chronic Ⅰ−4. life
Ⅱ 場所
Ⅱ−1. surgery Ⅱ−2. hospital Ⅱ−3. home Ⅱ−4.community
Ⅲ 方法
Ⅲ−1.communication Ⅲ−2. diagnosis Ⅲ−3. intervention Ⅲ−4. PCM
これらは例えば、急性の状態×診療所設定×診断・治療という状況が考えられるということを表現できる。次にそれぞれの履修すべき下位項目が続く。
Ⅰ−1 emergent
①consciousness disturbance ②shock ③dyspnea ④chest pain ⑤trauma
Ⅰ−2 acute
①pain ②fever③anxiety④organ specific symptom⑤・・・(未定)
Ⅰ−3 chronic
①knowledge of chronic disease ② behavior change 
 つまり時間の切迫状況に応じて対応するべき症候を中心にした分類を基本にするということ。例えばacuteでpain,feverという項目がありますが、これらは臓器にとらわれない考え方が必要であるという意味で総合或いはgeneralらしい視点を提示していると思います。地域の現場では痛みや発熱で受診することが非常に多いのですが、痛みに関して言えば、領域にこだわらずに痛みをとらえ解析することで不確定な状況に対応しやすくなります。またemergentの状況では、意識レベルの判断・対応、バイタルサインを常に意識しながら行う医療行為、心臓血管系への配慮、そして外傷対応は必須であって、実際の救急室の動きをなぞらえたものになっています。慢性疾患では各疾患別のコントロール状況と検査ならびに行動変容が大きなテーマになっていますのでこのように分類しました。最後のlifeという項目はlife eventを含んだ生活に関連したものの見方とアプローチを学習するものです。
 これらに続いて、さらに具体的な臨床に即した学習項目をお示ししたいと思いますが、え〜、さらに続く・・・かなあ(実はまだ思案中)。
 



2010年9月15日水曜日

new curriculum−1

 医師会雑誌に生涯教育新カリキュラム〈2009〉が掲載されていた。医師会主導の総合医認定のためのカリキュラムで、福井次矢先生をはじめ医学界ではつとに有名なメンバーが数年をかけて制作したものだという。地域医療の崩壊への有力な解決策として出されたのが”総合医”であったはずのカリキュラムは、なんと実行される前に医師会の新人事とともにまるで骨抜きにされたのだった。生涯教育受講認定書が欲しい医師会所属の専門医の便を図ったのだそうだけれど、広い範囲の内容を取得することが前提のこの仕組みが、好きな科目を決められた時間受講するだけでよいという以前の形に戻ってしまっている。地域住民のための計画が、医師の便宜でご破算にされる。カリキュラム制作に尽力された方々の深いため息を思って、こちらも深いため息が出てしまう。professionalismが泣く。30年前も、20年前もすべて総合を目指した研修カリキュラムは医師の都合で不発に終わった。世間は失敗の事実さえ知らなかった。それでも現在希望があるとすれば、地域医療の崩壊を目の当たりにした世間が、以前よりも医師の研修やその考え方に注目しているということだ。社会の要請と無関係なprofessionとはそもそも語義的にみてもありえないのだし。ばかやろー(と、海に)。
 医師会の新カリキュラム自体は、さすがに、洗練されていて美しいと思う。作成された方々の情熱や優秀さがよくわかる。ただ、本当に僭越と思うのですが、地域医療の現場から言えば、少し物足りないとも感じます。僕が欲しいのは・・・次回に続く。
 
 

2010年9月13日月曜日

communication dive

 季節がようやく秋らしくなったせいか、少しいつもの感じをとりもどしている。渡英の話、或いは若い同僚たちの結婚話もあり、息子の進学や就職のこともあり、今週末は東京出張もあって、やっぱり落ち着かないのはいつものことだけれど・・・そうそう少しいつもの感じ。外来の会話の中に沈潜してゆくときの妙な感覚のこと。最近は、相手の視線のベクトルの中に、自分の視線を飛び込ませて、自分の表情を相手側から想像するという変な作業をしている自分に気づいて驚く。彼の表情の微妙なゆらめきに、自分の表情が同期する、或いはその逆、さらにまたその逆。まるで自分の顔を鏡で見ている時のようにいたたまれなくなってきて、すぐに視線を下方5度ほどそらせては、ではまたいつものお薬を、なんて言っている。なにをやっているんだか・・・コミュニケーションの起源を追体験しているような気もするけれど、なんだか触れてはいけないものに触れているような気もする。或いはこんなことはあんまり普通すぎて、みんな感じないのだろうか。コミュニケーションは考えるほどに難しい。意識する人ほど、難しいのだろう。意識せずにするコミュニケーション、これはまた相当に困難だろうし、そんなのそもそも必要とも思われない。
 外来診療の不思議さや奥深さや恐さを感じつつ、それでもcommunication diveするのだ。そこは多分、家庭医・一般医の住み処だからね。うーん、自分の首をしめている気がする・・
 
 

2010年8月31日火曜日

teaching medicine in the community

 英国の地域医療と医療教育を視察する下準備ために医学教育に関連した文献を読んでいます。あらためて日本の新臨床研修制度の内容とそれを実行するために展開されている指導医講習会のことを考えながら、その理想と現実の間隙の深さに戸惑いを感じます。僕を含めた指導医講習会の受講者たちが、はたして現場でその教育理論を用いながら、現実的にその体現者たりえたかというと、実のところ厳しいです。各科には徒弟制度の影響がまだ色濃く残っている状況で、講習会でならった成人学習理論・学習者中心の教育を実行することの困難さは、議論するまでもなく分かってしまう。そもそも大学での教育でさえ全く学習者中心ではないのだから、当たり前と言えば当たり前のことなんだけど。
 臨床研修制度の内容は決して悪くない。ただ、その大きな目標となっている医師としての人格の涵養や学習を自発的に続ける能力の獲得といったところになると、これは、忙しい各科の現場ではなくて、むしろ大学でこそ系統だって学習するべきもののように思う。表題の本を読むと、かの国ではこれを卒前教育として地域中心で行っているようなのだ。医療制度等のお国の事情はあるのだけれど、膨大な情報の氾濫、医療の社会化、他職種とのチームワークなどが必須の現代で、医師として生涯発展するための能力をこの時期に、しかも地域という現場で獲得するというのは本当に重要だと深く思う。自治医大の卒業生たちが自前で獲得してきたことと同じ形であることにも驚きました。なんという教育システムだったことか!
 研修制度のマイナーチェンジがあったけれど、大学教育との連動の必要性はあまり問題にされてないのだろうか?各科の技術は卒後の研修で、医師としての基本骨格(内容ではなくてその形)は大学で。多分それには従来の慣習を大きく変えなければならないし、母校自治医大もそれに気づかなければ、未来はないとも感じます。各地域にいる卒業生がいなければ、実は自治医大は普通の医学校の1つに過ぎませんからね。